かねたさんにいただいたコメントを受けて思いついたことをメモ。
とりあえずフーコー先生に「知識社会学なんてシラネ」といわれたら、「あんたの自己認識など知ったことか。逝ってる事が知識社会学なんだからしょうがない。」とお答えすることにしましょう。 私にとってなんといっても興味深いのは、プロジェクトとして掲げている看板は知識社会学をひっくり返す*はずものであるのに、その同じストロークから知識社会学的なテーゼが平気で出てきてしまう、というそのギャップ、です。
** ex. 「対象に依拠して記述するのではなく、むしろ対象の分散を記述せよ」といった(-プログラム的な=方針を述べる-)主張。
『考古学』プロジェクトの「失敗」──について、そろそろ一度まとめてみようと思っていますが、これ──は、おそらくフーコーがかかえている自己誤認に由来するのではないか、というのが現時点での仮説。そして、フーコーほどの人がなぜそんな失敗をしたのか(、そしてそのあとどうしたのか)、というのは、それなりにまじめに考えてみる価値がある──だけでなく、考えてみないともったいない──かもしれないぞ、というのが現在の感触、です。
ニーチェについては...。とりあえず語ることがないのですが。読みようによっちゃどうにでも読めるような──という言い方に語弊*1があればこう言い換えますが、読者のお望みの「内容」を お望みどおりにいくらでも引き出せてきてしまいがちな*2──ゆるいテキストにまじめにつきあうだけの若さは、もう──人生も先が見えてきましたし──失ってしまいました ‥‥ってことでコメントはご勘弁を。
084「ニーチェ、系譜学、歴史」(1971)で扱っているようなトピック(「起源」の問題)を
ニーチェがらみではなく*3、たとえばダーウィンでやってくれたら面白かった──だろうし、インパクトも重要さも桁違いに大きなものになった──だろうに、とは思います。その点は残念ですが、まぁないものねだり*4でしょうね。
とりあえずこんなところで。