ニーチェとか知識社会学とか

かねたさんにいただいたコメントを受けて思いついたことをメモ。

とりあえずフーコー先生に「知識社会学なんてシラネ」といわれたら、「あんたの自己認識など知ったことか。逝ってる事が知識社会学なんだからしょうがない。」とお答えすることにしましょう。 私にとってなんといっても興味深いのは、プロジェクトとして掲げている看板は知識社会学をひっくり返す*はずものであるのに、その同じストロークから知識社会学的なテーゼが平気で出てきてしまう、というそのギャップ、です。

* それどころか、「これ**認めたら、そもそも連辞符社会学なんて成り立たないじゃん」という類の(プログラムとしては)インパクトのある主張。
** ex. 「対象に依拠して記述するのではなく、むしろ対象の分散を記述せよ」といった(-プログラム的な=方針を述べる-)主張。
これに従うなら、「X-社会学」という場合のそのXが、まず真っ先に解体されることになる。

『考古学』プロジェクトの「失敗」──について、そろそろ一度まとめてみようと思っていますが、これ──は、おそらくフーコーがかかえている自己誤認に由来するのではないか、というのが現時点での仮説。そして、フーコーほどの人がなぜそんな失敗をしたのか(、そしてそのあとどうしたのか)、というのは、それなりにまじめに考えてみる価値がある──だけでなく、考えてみないともったいない──かもしれないぞ、というのが現在の感触、です。

ちなみに、「フーコー的」だと称するプロジェクトって、その実しばしば「看板に偽りあり-の-知識社会学」なんじゃない?、という指摘は、既にこれまでもあったと思います(私がすぐに思いつくのは、北田さんのとか俊樹たん(@関東年報)のとかですが、忘れてるだけでほかにもあると思う)。で、私としては、そういう批判は、フーコー自身には当てはまらないんじゃないかなぁ、と思っていたわけです。漠然と。でも、1968〜1973年の「思考集成」の範囲でいえば、これらはフーコー本人にも当てはまってしまうんじゃないか、という疑念があらためて生じた、ということなのでした。


ニーチェについては...。とりあえず語ることがないのですが。読みようによっちゃどうにでも読めるような──という言い方に語弊*1があればこう言い換えますが、読者のお望みの「内容」を お望みどおりにいくらでも引き出せてきてしまいがち*2──ゆるいテキストにまじめにつきあうだけの若さは、もう──人生も先が見えてきましたし──失ってしまいました ‥‥ってことでコメントはご勘弁を。


084「ニーチェ、系譜学、歴史」(1971)で扱っているようなトピック(「起源」の問題)を

これは確かに──(たんに)難しくも面白い問題だ、というだけでなく──、「記述-と/における-時間構成の問題」についての考察は「社会(学的)記述」という課題にとっても必須の考察課題だと思います、が、

ニーチェがらみではなく*3、たとえばダーウィンでやってくれたら面白かった──だろうし、インパクトも重要さも桁違いに大きなものになった──だろうに、とは思います。その点は残念ですが、まぁないものねだり*4でしょうね。

そのほうがルーマンとの比較がしやすくて(私が)嬉しい、という事情もありますがw。


とりあえずこんなところで。

*1:藁。

*2:もっとも、そういうことをする読者は、どんなテクストに対してもそうするわけなので、仕方がない、という話もありますが。

*3:この論考、ネタがニーチェなので、あんまりまじめに検討する気になれないわけですよw。

*4:でも、せっかく進化論史を扱ったことのあるフーコーならば...、と考えると....