シリーズ『啓蒙とは何か』

本日の通勤読書。
しばらく『啓蒙とは何か』絡みの論文を追いかけますよ。


[1] は見事にさっぱり なにもわかりませんでした。
[2] の見出し。

  • 一 啓蒙主義フーコー
  • 二 道徳と討議倫理
  • 三 自由の実践としての倫理
  • 四 倫理と権力
  • 五 結びにかえて
一「啓蒙主義フーコー」から。

フーコーは言う。

批判とは、ある意味で、啓蒙の中で成長してきた理性の手引きである。それゆえに、逆に言えば、啓蒙は批判の時代なのである。15

 その上で彼は、そうした批判的吟味としての啓蒙を受け継いで行くことは、われわれにとっても重要であると主張する。但し、カントの『三批判』が、ここから先は超えられない というギリギリの限界を明らかにしようとしたとすれば、われわれはむしろ、ここは越えて良い という領域(つまり、単に恣意的な製薬として存在しているにすぎない部分)を探る積極的な探求をすべきである。注目すべきことに、ここでフーコーは、彼自身が従来標榜してきた二つの方法論的立場、つまり「考古学」と「系譜学」の意義に論及する。彼によれば、

  • 「考古学」とは、われわれの指向が何によって想定されているかを発掘する作業であった。そして、
  • 「系譜学」とは、そのようにわれわれをわれわれたらしめている歴史的条件(「偶有性」)から われわれの「可能性」を切り離すことによって、われわれを自由にするものなのである。

もちろん、われわれの自由には限界がある。自由について空虚な夢をみてはならず、同時代の現実をしっかりとふまえる必要がある。しかしその上でわれわれは、その現実のどこを変えられるか検討することができるというのである16。[35-36]

分かりやすいですけど。赤字部分て、これほんとにちゃんとした対比になってますか?

五「結びにかえて」から

 これまで見てきたように、ハバーマスとフーコーは、ニーチェ以後の思想家として、普遍的な道徳をア・プリオリに信じられない点で一致している。… カントの場合と根本的に異なるのはその点である。両者は共に、批判としての啓蒙が自らのよって立つ土台をも掘り崩しかねないという、批判の「自己言及性」にさらされているのである。
  しかし、それならば、フーコーは個人の自由な倫理の実践をより全面に押し出し、ハバーマスは道徳についての透明な合意をより強調するという、二人の思想家のアプローチの違いはどこから来るのか。… 過去及び現在の多くのドイツ知識人と同様に、いやその中でも並外れて、ハバーマスはドイツの政治的「後進性」を強く意識し続けてきた。彼が「コミュニケーション的理性」の必要性を叫び続けるのも、ドイツ社会がともすれば、「戦略的行為」一辺倒に走り易いという認識、そして、その最悪の携帯が遠くない過去において出現したという歴史認識と無縁ではないと思われる。すなわち、ハバーマスの認識では、カントが「未成年状態」と読んだものは単なる過去ではなく、現在でもある。… ハバーマスにとって近代はガラス細工のようにもろく、個人の自由な「実践」に委ねるのは危険すぎる。… かくして彼は、静養近代的な規範の普遍性を理論的には何ら証明できないにもかかわらず、いやむしろそれゆえにこそ、それを相対化する動きに対して苛立ちを隠さないわけである。
 他方フーコーは … ハバーマスよりは、近代の構造的安定性を信じている。個人の自由な倫理を認めても、すべてが崩壊してしまうようなことはないとするのである。それどころか、近代が実現したものを大事にするあまり、自由な「実践」を禁圧することは、絶えざる事故批判としての啓蒙の精神に反し、むしろ近代そのものの否定につながるのである。[62-63]

これ、どちらかを「選択」しないといけない(・選択できる)ような問題じゃないよね。常識的に考えて。
「二人の思想家のアプローチの違い」がどこから出て来るのかといえば、両者とも目配りとバランスの悪い一面的な議論をしてるところから、ではないですか。


あと、普遍性があるとかないとかいう話をする前に、普遍性という言葉で何を指そうとしているのか教えてくれないと 読むのがつらいです。