涜書:ル・ゴフ『ル・ゴフ自伝』

夕食。自伝再訪、糸冬了。

ル・ゴフ自伝―歴史家の生活 (叢書・ウニベルシタス)

ル・ゴフ自伝―歴史家の生活 (叢書・ウニベルシタス)

『煉獄の誕生』。そう思わない人もいますw:

  • 煉獄に関して、あなたはその語が形容詞から名詞へ移行したことが本質的な進化の証拠になると指摘していますが。

 それらのテキストを読んで、細部に感激しました、だから歴史家という仕事の、もっともつつましく、もっとも謙虚な実践から本を書くことができたのは本当にうれしいことです。あの世にいる若干の罪人が地獄にいるような責め苦と懲罰を受けているところが表わされていた、というのも火攻めにあうということは地獄の特徴だからです。その火と火が燃える場所、あるいは火による罰は浄化鍛錬的(ignis pourgatorius, locus purgatorius, poena purgatoria)と形容された。次いで、はじめはわたしも決定できなかったある時期から多くのテキストで、できるかぎり徹底的で、緻密な検討が必要だった、浄化鍛錬的という語がたんなる形容詞でなくなり、煉獄(purgatorium)という名詞になったことが確かめられた。刑罰による浄化鍛錬がおこなわれるあの世の場所が決定されていたのです。形容詞から名詞への移行は重要なことに思われた。わたしは、たとえばリュシアン・フェーヴルにならって、いつも語彙によく注意し、ある語の出現、ある文法形式の変化が概念の移動、思想の移動に照応すると信じていますが、そう思わない人々もいます。
 ところで、問題の場所において、きわめて興味あることが起こっていた。たとえばその場所で、罪を告白しなかったからか、あるいは改俊しても贖罪しなかったからか、とにかくまだ完全に罪を赦されていない死者たちが補足的贖罪時期に恵まれて、なんとか救われることになった。

  • 「第三の場所」の出現は本質的なことと思われますか。

 それはキリスト教徒にとって、あの世のビジョンをつくりがえ、したがって完全に基本的な方式で救済の道を変えたと思われた。その語の出現時を研究し、それが1170年ごろにつくられたと決定できると考えた。煉獄を考えだした人々、普及させた人々、言うなれば宣伝者の本拠を二つのタイプに決定しようと試みた。つまり一方では、まずパリのノートルーダム大聖堂役員派をはじめとする十三世紀のスコラ神学を告げる人々であり、他方、シトー修道会が本拠だった。
 その重要な新しい趨勢は十三世紀においてキリスト教会から異端と見なされていた人々の激しい反感をそそった。つまり異端とはカタリ派信徒であり、不浄観にとりつかれ、真っ黒か真っ白かの中間を認めず、絶対に煉獄と反していた。その後、プロテスタントの反対を考慮しなければならなかった。ルターは三番目の場所に敵対した大物だった。わたしは反対に、煉獄の出現が天国と地獄の二元論に対して、精神性、行動の仕方、社会構造、そしてもちろん宗教心の進化として意味深いと考えます。だからその点に一種の全体的社会現象を認めて、デュルケームの用語にしたがいたい。[p.222-3]

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本日の小ネタその2。
辞典『新しい歴史』について:

  • [『歴史と記憶』を書いたのと]同じ時期に、『新しい歴史』という辞典編纂の強力を依頼されていますね?

 これはレス出版社からの依頼ですが、われわれとしては苦情を言わねばならなかった。歴史家グループと一緒に歴史学の新しい方向の辞典をつくる予定だった。わたしとしては、研究の普及とその結果については、いつも関心が強かったので、その辞典の計画に魅惑された。
 その本が出版されたときには『新歴史辞典』という表題で、それでがっかりした、というのもその表題が、ほかの完全に正統な歴史書に挑戦的であり、しかも新しい方向の形成を示す年代的な含意を少しも考慮していないと思った。わたしとしては『歴史学新機軸辞典』としたかった、そのほうが内容を正確にし、限定したからです。もちろんそんな表題は面倒すぎるので、出版社の気に入らなかったのでしょう。
 さらに、「新しい歴史」という表現には保証人がついていた。まず、その言い方は『知の考古学』でミシェル・フーコーによって用いられ、次いでその用語はブローデルによって歴史家たちのあいだに導入された。「新しい歴史」という言葉は幾度も言われたことが思い出され、またとくにかれがテレビ放送でジャン-クロード・ブランギエとの対談においてとくに強調していた。
[p.225-6]



てことで『〈ヨーロッパと中世・近代世界〉の歴史』とか『歴史と記憶』とかをぱらぱらめくる冬の夜長。