ユルゲン・コッカ『社会史とは何か』

ルーマン社会構造とゼマンティク 1 (叢書・ウニベルシタス)』読書会にあわせて再訪。
初版 1977年刊行。増補版(第4章を追加)1986年刊行。

社会史とは何か―その方法と軌跡

社会史とは何か―その方法と軌跡

  • 緒言
  • 第1章 ドグマティズムと決断主義のとの狭間にある歴史学──未来の史学論のための基礎
    • 1 対象、概念、関心
    • 2 歴史学における客観性の基準
  • 第2章 社会史──概念・発展・問題
    • 1 論争問題──なぜそれは議論に値するのか
    • 2 政治史としての一般史とその帰結──学説史上の基本型
    • 3 1945年以降のパラダイム変化のための命題
    • 4 構造史──ひとつの考察方法
    • 5 部分領域の歴史としての社会史
    • 6 社会全体の歴史としての社会史
  • 第3章 歴史──何をめざして?
    • 1 この問いの歴史的ならびに現在の諸条件と回答の可能性
    • 2 歴史学の社会的な使命と機能
    • 3 アイデンティティの形成と批判
  • 第4章 ドイツにおける社会史の新展開
    • 1 新旧のカテゴリーと理論
    • 2 社会経済史
    • 3 政治社会史
    • 4 社会史と文化
    • 5 社会構造史をめぐる諸問題
    • 6 歴史社会科学と「日常生活史」
    • 7 展望

1986年に追記された第4章では、『ドイツにおける政治社会用語の歴史辞典』(『歴史基本概念辞典』)に触れながら

概念の社会史自体は なるほど今となっては いくぶん過去の研究関心となってしまった [p. 235]

との評が見られる。(この時点では、「文化史」や「意味解釈史」のほうがトレンドだった、ということらしい。)

ちなみに著者がここで「文化」概念を規定するのに利用しているのは、ギアツブルデュー、エリアス、ピーター・バークなど。

ところで、「概念の社会史」という言葉はあまり見かけたことがない気がするのだが、わりと普通の表現なのであろうか。

FAQ

1986年当時にトレンドになりつつあったらしい「日常生活史」へのコメント。
どの分野でも非常によくみられる・ありふれた話法の歴史学における1ヴァリアント:

 1 日常生活史が関心を寄せるのは、人間の知覚や経験、態度や行為に対してであり、あるいはまた、どのようにして人間がそうしたさまざまな経験を意味あるものとして、あるいは意味亡き者として統合することが出来るのかという問題に対してである。こうした日常生活史の研究関心は、歴史学とくに社会史を豊かにする可能性を含んでいる。[…](p. 249)

 2 しかし他方で、単に経験を再構成したからといって、ただそれだけで歴史を概念的に再構成したことにはならない。[…] というのも、ある経験や知覚が、別様にではなく まさにかくのごとく おこなわれるに至った諸条件は、通常、当の経験それ自体のなかに伏在しているわけではないからである。したがってそれは、過去の経験を追想しただけでは把握することが出来ない。

たとえば
  • 聖人崇拝が、3、4世紀の初期キリスト教団の成員にとって何を意味していたかとか、
  • 彼らの意味経験や現実観にどう反映していたか
とかを理解することと、他方で
  • なぜ聖人崇拝が、3、4世紀に始まり、またなぜそれが後期ローマ帝国の政治的・文化的諸条件のもとで起こり、
  • それが当時の社会や長期的発展にとってどのような意味をもっていたのかを把握すること
とは別のことである。後者を理解するためには、聖人崇拝が当時の教団の成員の経験的地平のなかで有していた意味を再構成することだけではまったく不十分である。しかも、それさえ非常に困難な作業であるし、またできるとしても せいぜい近似したものを可能な限り追求することだけであろう。後者の問いを把握するためにはむしろ、
  • 当時の経済や社会の歴史、政治や文化の歴史に関して、構造史や過程史に立った包括的な考察をおこなうこと
が必要であるし、
  • 古代社会における政治的行為の理論を理解しようという理的努力
も必要となろう。理論的に進められた構造史および過程史の把握が必要なのは、たんに経済的・社会的な現象を歴史的に分析するためだけではない。それは、政治や文化の発展を理解するためにも必要なのである。つまり、文化史もまた、経験史へと解消されるものではないのである。

 そもそも構造や過程とは、種々の経験を総和させた以上のものである。構造や過程は たいていの場合、経験のなかには現れていない。現れていたとしても、歪められた形でしかない。逆にいうと、経験も、構造や過程によって完全に規定されるものではない。[…] 総合的な叙述が、経験や行為の歴史をつうじて成し遂げられると期待することはできない。それはありえないことである。歴史の連関を認識するためには、構造史と過程史を中心とした把握が必要となる。
 以上のことからいえば、経験史の命題は、従来の社会史に代わるオールタナティヴとなりうるものではないが、しかし社会史の内容にアクセントの変化をもたらし、より豊潤にするうえでは役立つであろう。そして経験史の命題がきっかけとなって、構造および過程と、経験および行為とを いかに媒介させるべきか、という理論的・方法論的な論争が再開されることも期待できよう。(pp. 251-252)

さまざまな定型的話法がセットで提示されていて、とても見事なものである。

ところで「しかも、それさえ非常に困難な作業であるし」は、議論のどの部分をサポートしているのだろうか。


最後は「ミクロ-マクロ リンク」──構造および過程と、経験および行為とを いかに媒介させるべきか──に着地。これもまた見事(に定型的)