涜書:ル・ゴフ『ル・ゴフ自伝』

昼食。つづき。

ル・ゴフ自伝―歴史家の生活 (叢書・ウニベルシタス)

ル・ゴフ自伝―歴史家の生活 (叢書・ウニベルシタス)


歴史教科書を書いた頃を振り返って、「テーマの歴史」について語るル・ゴフ先生:

  • あなたは1950年代に歴史教育の責任者らが試みた改革を糾弾していますね?

 教授法の誤りは結局、あまりにも意図的な改革になり、しかもきわめて有害なものとなり、言うなればあまり賢明でないつくりごとになります。非常に反歴史的な教育形式になってしまうのです。たとえば有名なテーマ的歴史がそうでした。テーマが選ばれ、それが垂直に扱われて、まさしく挿話的、カード的な歴史が避けられると信じられた。それは、ほかのすべての領域と比較的独立して発展する領域があるなどという考えを子供たちに押しつけることになった、たとえば農業や輸送があります。そのような孤立した勉強から、歴史の進化が根本的に技術の発展に依存するという考え方が生まれ、そのために社会の歴史や文化の歴史がなおざりにされました。それは『アナール』のようなグローバルな歴史観とは完全に対立します、ところが文部省の理論家たちはその『アナール』から逆のヒントをえたと思ったのです。そのような動きは1968年に促進されたが、実は、すでに以前からその傾向はあったのです。教育視学総監や高級官僚のうちには、教養もあり、頭も良く、歴史教育を歴史研究の進歩や時期・時代の要望に歩調を合わせようとまじめに考えている者もいましたが、それがきわめて不器用だったので、きわめてまずい結果になったのだと思います。[p.144-5]

わかるようなわからんような...。


本日の小ネタ。
ロラン・バルト先生のお人柄が偲ばれる「第6ちょっといい話」。

こういう「散文的」な仕事をさせると鬼のようにスバラしい働きぶりをみせるわけですが、彼も「ロジー効果」(© ブルデュ)症候群に取り憑かれて、『モードの体系』なんて本を書いちゃったんですよねぇ。そーいえば。

高等研究学院第六部門の科長をブローデルから引き継いだ(1972)直後の人事話。学院を運営する5名(含む科長)の「本部」役員の人選、その5人目に──:

 それは厚かましい考えだった。なにしろこの怒りっぽい知識人はブローデルを魅了したことがあり、孤立して、われわれより上のほうにいたからです。本部のスタッフ全員は大学の学術的政策に平等に参加するはずでしたが、わたしとしては、その政策の準備に専従し、本部が企画部であることをはっきりさせるような思索的頭脳の存在を望んでいた。だからロラン・バルトに話してみようと思った。というのもかれを高く評価していたし、かなり親密だったから。しかしそれほど名声があり、たくさんの本を書き、いずれはコレージュ・ド・フランスの教授になると思われ、外国にもよく招待されている人物だから、「ノー」と言うだろうと思っていた。ところがそうではなかった。
 わたしはかれをサン-ジェルマン-デ-プレのあるレストランヘ昼食に誘った。そのとき、かれはこう言った「三、四日後に、返事をしましょう」。さっそく次の日に、かれは二年間だけなら承知しようと言った、しかし実際には三年間とどまった。その期間のあいだに、バルトに対する尊敬と友情はいっそう深まった。かれはあてがわれた役割を完全に果たした。本部のスタッフは毎週、金曜日の午前に集まり、行政的な問題をたくさん議論しなければならなかった。バルトはその議論に加わり、それから話し合いを知的な問題へつないだ。かれの知性はきわめて広い簡明さと、きわめて鋭い明噺さで働いていた、ところがかれが書いた本は、白状すると、少し気取りすぎているように思われることがあったが、かれの話す言葉は本部で話したとおり、まったく気取りがなかった。われわれはみな、かれの言葉に耳を傾けた、とはいえ、かれは決してわれわれを驚かせたりしようとせず、われわれとほんとうの対話をしてくれた。当然、バルトはいくつかの職務を免除されてもよかった、とくにわたし以外の本部のスタッフの仕事です、たとえば新しい志願者の調書を検討し、たいていは好意的な意見をつけてからかれらすべてを受け入れることになります。

事実、学院に登録するには資格の条件はなかった、しかし講義を聴いたり、ゼミナールに出席するにはある程度の知的レベルが望ましく、同時にほんとうに学問をする意欲のある人々が望ましかった。われわれのところはコレージュ・ド・フランスではなかった、その大学なら花形教授の講義を聴きに来たり、たんに暖をとるために来る者もいた。

ロラン・バルトはその仕事をほかのスタッフと平等に引き受けてくれた、しかもそれは幾日もかかったが、熱心に協力した。[p.170-1]

バルト(・∀・)カコイイ!
ところで、

 ロラン・バルトが本部を去ったとき、代わりにモーリス・ゴドリエという人類学者に来てもらった。

ゴドリエがバルトの後釜だったとはしらなかった!