山川雄巳(1977/1982)『アメリカ政治学研究』

名著の予感。
asin:479070226X / ISBN:B000J8QGDS

第二章「行動論政治学の形成」

行動論的政治学イーストンによるまとめ。1965年。
p. 60

 このような[他領域における]全社会科学的な行動科学構想が解体したあと、政治学にとりついたムードとしての行動論の概念的内容の確信は、「新しい」「科学的な」政治学ということである。イーストンは、1965年にそれを次のように内容分析している。

  1. 社会行動における規則的なものを探求し、知見を理論的に一般化すべきである。
  2. 理論は、原則として関連行動への引証によってなされる検証手続きに服すべきである。
  3. 行動の観察・記録・分析のための厳密な方法や技術が開発され、利用されるべきである。
  4. データの記録と発見の陳述の精密性を期するために、数量化と測定の論理的手続きが必要である。
  5. 価値判断と経験的説明とは異なる。両者は分析的に区別されるべきである。もっとも、行動論者は、両者を混同しない限り、どちらの命題を述べてもかまわない。
  6. 研究は体系的でなければならない。理論に導かれない調査研究は無益であり、データにささえられない理論は不毛である。
  7. 知識の応用は重要だが、これに先だって、社会行動の理解と説明に関する基礎理論の開発が重要である。
  8. 社会科学は人間状況の全体とかかわる。社会諸科学の相互関連の認識と自覚的な統合が重要である。
第六章「転換期の政治学

1969年のイーストンによる政治学会会長講演。要約。
pp.313-5

 行動論主流に対する左右からの不満と攻撃の噴出に直面して学会エスタブリッシュメントがおこなった応答のうち、もっとも本格的で大きい影響を及ぼしたのは1969年の[アメリ政治学会]年次大会でおこなわれたデヴィッド・イーストンの会長演説である。この演説で、イーストンは、政治学における新しい挑戦を正面からとりあげただけでなく、この挑戦とそれによってもたらされる変革に、「脱行動論」(the post-behavioralism)と「脱行動論革命」(the post-behavioral revolution)という名称を与えてその本質を分析し、さらに、問題提起に対して肯定的な態度を示した。これは、学会会長尾公式の態度表明であるだけに、きわめて劇的な出来事であった。イーストンは、けっして思いつきでこのようなことを言い出したのではない。[行動論に反対して政治学会から分派した]新政治学コーカスの執行委員会のメンバーであったローウィは、コーカスが結成された67年当時 APSA[アメリ政治学会]の会長補であったイーストンが、きわめて良心的にコーカスのリーダーたちに対応し、かれらの不満がどのようなものであり、なにに原因しているかを明らかにするために多大な時間をさいたことを証言し、イーストンはたぶん、このような経験から、コーカスなどによる無数の告発に会長として答えなければならないと思うようになったのだろうと述べている。少なくとも二年間、イーストンは悩み考え続けてきていたのであり、そしておそらくは、非常な決意をもって、この演説にのぞんだのである。
 演説においてイーストンはいう。政治学は最近の一連の社会的政治的危機から挑戦を受けつつあり、学会の内部にもそれが反映して新しい争いを生んでいる。この争いは行動論正統派に向けられた挑戦によって生じたものである。これはすでに無視し得ない事実となっており、その意味するところも重大である。この挑戦のことを「脱行動論」(…)と呼ぼう。脱行動論は始まったばかりのひとつの運動であるとともに、知的傾向であるが、その参加者はきわめて広範囲にわたっており、…、この運動の全体として特定の政治的色彩をもたない。また特定の方法論的立場とも関係がない。この運動の参加者を定義する基準は、ある感情、すなわち現在の政治研究のあり方への強い不満を共有しているということである。イーストンは この不満が、次のような有意性の心情(Credo of Relevance)ともいうべきものから生まれていると考える。これは、われわれがマッコイ=プレイフォードの[行動論批判の]主張としてすでに知っているものを、かれなりに展開したものである。

  1. 研究においては、分析テクニックの洗練性よりも、得られる知識の実質的有意味性が大切である。
  2. 行動論は経験的保守主義イデオロギーを隠し持っている。
  3. 行動論的研究は、現実問題を回避している。
  4. 政治学はみずからの価値的前提を自覚する必要がある。価値の研究とその理論的展開は、政治研究の本質的要素である。科学は没価値的でありえない。
  5. 専門的学者はすべて知識人の社会責任をまぬがれない。その責任とは、文明の人間的価値を擁護するという任務を果たすことである。
  6. 知識人は、かれの知識を実現させるための特別の責任をおっている。
  7. それゆえ、大学や学会にしても、今日の社会的・政治的闘争のたんなる傍観者ではありえない。知的職業の政治化は望ましいし、また不可避的である。