社会学が見失ったもの

celestialさん、お返事ありがとうございます。(私の質問は→こちら

 前回のエントリで私が書いたこと(id: celestial:20041208#p4)について、日曜社会学さん*1から指摘をいただきました。日曜社会学さんは、私の文章を(親切にも手加減しつつ)深読みしてくださってるのですが、私としては、コンテクストをめぐる方法論について深く考えて書いているわけではないです。そうではなく(一例をあげると)、この分野がこうして理論的精緻化を遂げることによって、扱われなくなってきたテーマ、淘汰されてきたテーマがあるのではないか?・・・といった方面の話をしています。陽の当たらないテーマを地道に追ってきた一部の研究者や読者の中には、こうした理論的精緻化の過程を苦々しく思っている人もいるのではないか、ということです*2。一種の外在的な批判です。

  • http://d.hatena.ne.jp/celestial/20041211#p1

非常にシンプルかつベタな質問をさせていただいたつもりだったので、「深読み」と評されてたじろいでいます。私としても、

「コンテクストをめぐる方法論について深く考えて書い」たわけではなく──またcelestialさんに対してそれを求めたわけでもなく、単に──、
celestialさんが「社会学が見失った」とおっしゃるその指示先がどこであるのか、それが知りたかったのでしたが。 ともあれ、お答え(の一例)はどうやらここになるようです:

この分野がこうして理論的精緻化を遂げることによって、扱われなくなってきたテーマ、淘汰されてきたテーマがあるのではないか?・・・といった方面の話をしています。陽の当たらないテーマを地道に追ってきた一部の研究者や読者の中には、こうした理論的精緻化の過程を苦々しく思っている人もいるのではないか、ということです*2。

*2 私の言いたいこととは若干異なりますが、今田高俊がこんなことを書いています。「1980年代なかば頃から、社会学では、実証研究に冬の時代が訪れたように思う。これからの産業社会はどうなるかとか、高度情報化がどのように進むかといった、社会再編のテーマが中心的な関心事となり、それを構想する理論枠組みの模索に焦点が移っていった。若い世代の研究者も、近代性の問いなおし、社会的リアリティの再構成といった問題意識に駆り立てられて、伝統的な実証研究に対する関心から遠のいていったように感じられる。」(今田『社会階層と政治』東大出版会 1989 「あとがき」)理論的精緻化の過程そのものが、上記のような関心の移動の産物という面がある、ということだと思います。私は今田ファン(?)ではないし、別に実証がいいとは決め付けないし、今どうなってるかも知りませんけど。



ところで、celestialさんは、こうおっしゃっていて、ここは(半分は)「なるほど」と思いました:

 このあたりは、理論的精緻化に「こそ」魅力を感じてこの分野に手を染めた人と、そうでない人の間で、埋めようのない感覚差があるのだと思います。個人差のみならず、世代差や、この分野への入り方、見ているタイムスパンでも変わってくるのではないかと。精緻化が悪いと言うのではなく、それが振り向けられる方向の問題かもしれませんけど。

つまり、「社会学の現状」についての認識が

celastialさんは「今どうなってるかも知りません」とも仰っているわけですが

ずいぶん違うのだなぁ という素朴な感嘆をもって、私は読んだわけです。北田さんの本が「理論的な精緻化」の方向を向いているのかどうか、私にはわかりませんのでその点はさておきますが、今田さんの「1980年代なかば頃から、社会学では、実証研究に冬の時代が訪れた」という言葉にもビックリしますし、「理論的精緻化の過程」という言葉にもビックリします。そんなことが──進んでいる(/進んでいた)んですか?
「80年代なかば」以降の「理論的精緻化」といわれれば、たしかにたとえば、東大の『ソシオロゴス』誌周辺でキラ星のような「理論社会学者」が侃侃諤諤の論戦を花開かせていたことをシンボリックに例示することができましょうが、そうした「理論社会学的」潮流は、しかし現在でも続いている、という認識をお持ちだということなのでしょうか。 ‥‥門外漢の私には、そのへんの事情は伺い知れないので、その点 興味深く拝読した次第です。

もしも事実として、大量の若手社会学者が「理論的精緻化」業務に参入し・それに精を出しているという状況があるのであれば、celestialさんの疑念は──まったくベタに・なんの説明もいらない仕方で、つまりそうした事態への疑念として──腑に落ちるもので(ありえま)す。逆に私のほうの疑問は、そうした現状認識がなかったために生じた、ということ。

ただ──あえて一点突っ込みをいれさせていただけば──その読み=疑念は、北田さんの言葉の中にある、「民俗学的感性」という言葉と整合しないようには思われるのですが。なので、この語をcelestialさんがどう読んだのかが気になるところです。