涜書:ル・ゴフ『歴史と記憶』

夕食。

歴史と記憶 (叢書・ウニベルシタス)

歴史と記憶 (叢書・ウニベルシタス)

  ,o/ ∠先生!退屈でどうしようもないんですが最後まで読まなきゃダメですか!?
  lミiニ!



本日の便利メモ。第3章「記憶」から:

 ルネサンスから現代に至る時代を、アンドレ・ルロワ=グーランは「記憶の爆発」の時代と呼んでいるが、この時代を語彙の側面から見ていくことにしよう。我々はそれを、ギリシア語の mneme とラテン語memoria という二つの言葉から派生した一連の語彙の広がりとして、フランス語を例にとって見ていくことにしよう。
 中世は、11世紀以降に現れるフランス語の初期の史料の中に、memoire(記憶)という中心的な言葉を残している。13世紀には、memorial(覚書)がこれに加わる。これはすでに見たように、会計帳簿に関わる言葉である。さらに1320年には、行政文書を意味する男性形のmemoire(意見書)が現れる。記憶は、この頃に発展し始めた中央集権的王政に奉仕する官僚機構の一部となる。記憶術が項点に達し、古典古代の文学が復活する15世紀においては、memorable(記憶すべきもの)が登場する。これは伝統主義的な記憶である。歴史が誕生し、個人の価値が確立する16世紀においては、一般的にいって地位の高い人々によって書かれる memoire(回想録)という言葉が1552年に現れている。18世紀にはいると、1726年には memorialiste(回想録作者)が、さらに1777年には、英語を媒介にしてラテン語から作られた memorandum(備忘録)が現れる。これはジャーナリストや外交官の記憶であるが、そのことは、社会的、国民的、国際的な世論というものが自分自身の記憶を作るようになったことを示すものである。19世紀の前半には、多くの新しい言葉が作られるようになる。1803年には、近代医学が anmesie(記憶喪失)をもたらし、1800年には mnemonique(記憶を助ける)、1823年にはmnemotechnie(記憶術)、1836年には mnemotechnique(記憶術)、さらに1847年には、スイスの教育学者によって memorisation(銘記法)が作られる。これら一連の言葉は、教育と教育学の進歩を反映するものである。1853年には、記憶の必要性が日常生活にまで浸透したことを示す aide-memoire(便覧)が現れる。最後に1907年、記憶の爆発を端的に表現するような動詞 memoriser(記憶する)が現れる。
 しかし、アンドレ・ルロワ=グーランが指摘しているように、何といっても18世紀が集合的記憶の発展においては決定的役割な役割を演じている。

「辞書は、純粋に学問的な研究から、マニュファクチャーや日曜大工のために刊行されたあらゆる種類の百科事典にいたるまで、その極限に達している。技術書の最初の真の発展は18世紀の後半に起こっている……。辞書は外在的な記憶のきわめて発達した一形態をなすものであるが、そこでは思想は無限に細分化されている。1751年の『百科全書』は辞書の中に包摂された一連のマニュアル集である。百科事典はアルファベット順に細分化された記憶であり、その一つ一つの部分が、全体的な記憶の生きた部分をなしている。ヴォーカンソンの自動人形と『百科全書』とは同時代のものであるが、それは今日におけるロボットと情報処理システムとの間の関係と同じものである」(Leroi-Gouhran, 1964-65, pp.70-71[ASIN:4105107011])。

 このようにして蓄積された記憶は、1789年の大革命において爆発する。フランス革命は、こうした爆発の偉大なる引き金であったのではなかろうか。



 生きている者たちがこのようにますます豊かになっていく技術的、科学的、知的な記憶を享受しうるのに対して、記憶は死者に対しては背を向けていったように見える。17世紀末から18世紀末にかけての、フィリップ・アリエスやミシェル・ヴォヴェルが描き出したバロック的なフランスにおいて、死者に対する記念行事は衰退していった。墓は、国王のそれをも含めて、きわめて簡素なものになった。墳墓は自然の中に投げ出され、墓地を訪れる人も少なくなり、その管理も悪化した。ピエール・ミュレというフランス人は、『万国の葬儀』という著書の中で、とりわけショッキングな死者の忘却をイギリスに見出し、その原因をプロテスタンティズムに帰している。「かつては故人の記憶を年毎に想い起こしていたのに、今日ではもはや故人について語ることはしない。それはあまりにも教皇至上主義を感じさせるのであろう」。ミシェル・ヴォヴェルは、啓蒙の時代の中に「死を排除する」傾向を読みとっている。
 フランス革命後は、ヨーロッパの他の諸国と同様フランスにおいても、死者たちの記憶の復帰が確かなものとなる。新しいタイプの記念碑、墓碑銘、そして墓参の儀礼とともに、偉大なる墓地の時代が始まる。教会から分離された墓が再び記憶の中心となる。ロマン主義が、記憶と結びついた墓地の魅力を一層高める。
 19世紀においては、もはや18世紀のような知識のレベルではなく、むしろ感情のレベルにおいて、そしてまた教育のレベルにおいても、過去を記念する精神の高揚が起こる。[p.138-141]

以下延々とネタがつづくが省略。