涜書:ポール・ヴェーヌ『歴史をどう書くか』

ネタをひっぱるだけのために読み始めたのだが、面白くてつい全部再読読んでしまったわけです。

歴史をどう書くか―歴史認識論についての試論 (叢書・ウニベルシタス)

歴史をどう書くか―歴史認識論についての試論 (叢書・ウニベルシタス)

かつて この本を読んだとき、私はまだパーソンズ大先生は読んでいなかった。てことは、登場するギャグのほとんどを理解できていなかったわけだ。もったいない。

あくまで社会学は歴史とは別のものであろうとしている。この野心の結果は、社会学に喋ることがなくなるということである。要するに虚空にむかって喋るか、別のことを喋るか、どちらかなのである。結局、社会学の看板をかかげて出版される本はすべて、三つの項目のいずれかに属することになる。

  • [1]ひとつは、政治哲学である。これは自分でそうだとは認めていないが。
  • [2]もうひとつは、現代文明史である。
  • [3]最後に、魅惑的な文学ジャンルである。
    おそらくアルプバクスの『記憶の社会背景』Cadres sociaux de la memoire はその最高傑作だろう。この文学ジャンルは、無意識のうちに、十六世紀から十八世紀にかけてのモラリストや著述家を引きついできた。一般社会学は、だいたいそっくりこの第三項目に入る。



  • [1]第一の項目については、社会学は、科学そのものの体裁のもとで、革命における政治とか教育とかごろつきどもの役割とかについて、進歩的または保守的な意見を述べることを可能ならしめている。その場合、社会学は一個の政治哲学である。
  • [2]第二項目は、それに反して、次のような状態にある。社会学者がかりにナンテールの学生層の統計的研究をやって、1968年五月の学生反乱の理解に役だつ説明をそこから引き出すならば、彼が作っているのは現代史である。
    その場合、歴史家の卵は、社会学者の仕事を頭に入れるべきであり、その解釈を研究してみなければならなくなろう。したがって、われわれが社会学に対して悪口を言っているかに受け取られるなら、その点では、おとなしく社会学者にあやまりながら、われわれが商品に対してケチをつけているのではなくて、包装紙に対して文句を言っているのだと考えてくださいと彼にお願いするのが筋である。
  • [3]まだ一般社会学が残っている。ちょうど、現在の哲学的プロダクションの一部が、16〜18世紀に出版の莫大な割合を表わしていた(或る時期には、公刊された本の半数近くにのぽる)教訓文学および説教集を引きついでいるように、一般社会学モラリストの芸術を継承している。一般社会学は、社会がどうしてできあがっているか、集合の種類や人間の態度やその祭式やその傾向がなんであるかを語る。ちょうど、人間とか精神とかの格率や論考が人間の振舞や社会や先入見の多彩さを描いているように。モラリストが永遠の人間を描いていたように、一般社会学は永遠の社会を描く。モラリストや小説家については「文芸」心理学のことが、取り沙汰されるので、その意味で言えば、これは「文芸」社会学である。それは、「文芸」心理学のように、傑作を産む力をもっている。要するにバルタサール・グラシヤンの『宮廷人』〔原題『手の神託』〕Homme de Cour は社会学であるマキアヴェッリのように、これは規範的な言葉で書かれている)。
    しかし、この著述業的文学の大半は、生き残る星のもとに生まれてはいないし、ましてや累積過程に雷管を装置するどころの騒ぎではない。それが救われるには、ただひとつその芸術的または哲学的品格に頼るほかない。
    実際のところ、モラリストまたは一般社会学者の場合には、つねに既知の事柄の叙述が問題になる。ところでこの叙述が、これまた真実であることにかけては人後に落ちない 他の無数の叙述のあいだにおける可能なひとつの叙述にすぎず、各人が必要になれば自分でそうしたものを用意する手段をもっているとすれば、いくら叙述が真に迫っていても、それを思想の宝物庫に収納することは、思考経済の法則が許さない。思想は宝物庫のなかに「記憶の資材」──歴史と文献考証学──と科学的発見しか保存していない。

ところで、一般社会学は「文芸」社会学以外のものではありえない。すなわち、描写や大言壮語でしかありえない。これらの描写のいずれもほかの描写とくらべて真実であるとか、科学的であるとかとは言えない。描写であって説明ではない。非常に教室ふうに学識の三つの度合を要約することにしよう。

    • ニュートンの法則は、惑星の運動を説明するケプラーの三つの法則を説明する。
    • 微生物病理学は狂犬病を説明する。
    • 税金の重さがルイ十四世の不人気を説明する。
  • 最初の二つのケースでは、科学的説明がわれわれの手に入るが、第三番目のケースでは、叙述理解の一部が手に入る。
  • 最初の二つは発見を必要としたが、第三番目のケースは、〈記憶〉の子供である。
  • 最初の二つは、演繹とか予見ならびに介入を可能にするが、第三番目のケースは慎重さの受けもちである(悟性しか政治を取り扱わない)。
  • 第一のカテゴリーには、きわめて抽象的な概念が対応する。「仕事」とか「引力」とかである。
    第二のカテゴリーには、常識に基づく概念をきれいに除去した結果である、科学的概念が対応する
    (地質学者たちの言う「丘」は、日常語が丘という言葉で指示しているものよりは、はるかに厳密である。日常語の丘にはクエスタ〔スペイン語の「丘」〕を対置するのがならわしである)。 
    第三の説明には[天上のものではなく、]月下の概念が対応する。この第三の説明が歴史である。

社会学はどうかといえば、これは第一でも第二でもないから、歴史の一部であるか、または歴史を言い直したものであるか、どちらかをえらぶほかない。ところで歴史の叙述は、単語、概念、普遍からできあがる。それだから、これらの普遍の連鎖の一つを抜き出して、そこから一般社会学を作ることはいつでもできることである。前にあげた普遍しか使わないぞ、と心に決めることもできる。そうなると演繹的社会学に道が開かれることになる。しかし後者は、演繹的であると言っても、スピノザの『エチカ』とか、法学とか神学とかより以上の科学にはならない。結果はいつも同じである。一般社会学は大言壮語であり、なりたちうる社会学の数は無限であるということだ。事実経過がそのことを証明した通りである。[p.495-8]

まだまだ痛烈なギャグ満載。──だがこの調子で引用していると章全部をスキャンしてしまう事になるのでこのへんでやめておく。