憑依祈念:ルーマン『社会の芸術』

車中。1章。
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この著作の最初のライバルは、「芸術はコミュニケーションである」というテーゼを掲げる──ものや、さらに それに論争的にかかわる──美学的な議論だといえる。

それらは「もっとも重要なライバル」ではぜんぜんないが。

掲げるテーゼが「同じ」である以上、まず最初に、それらからの距離が測られねばならない。その点で言うと、たとえば『開かれた作品』が再三にわたって引用されているのはいいとして、ほかの議論ももう少し丁寧に扱ったほうが──少なくとも「美学系」なかたがたへの導入としては──よかった、ようにも思う。たとえば──私が真っ先に思いつくものを(したがって音楽美学の分野から)挙げれば──ナティエ[1987→1996]の議論とか:

音楽記号学

音楽記号学

もっともナティエ自身は、エーコの「コミュニケーション論的」な議論を──かなり単純化したうえで、それに対して──批判を加えている気でいるわけだが。
いずれにしても、ナティエがおこなっている「コミュニケーション論」批判は、『社会の芸術』に対してはまるであてはまらない。



「芸術はコミュニケーションである」というテーゼ自体はトリヴィアルなものなので*1

問題は──少なくとも端緒においては──、その「コミュニケーション」という言葉で名指されているものの扱いがどのように違うか であり、まずはその点こそを読者に吟味させねばならないのに、そこにいく以前に

「テーゼがトリヴィアル」だという理由で議論が素通りされてしまいかねない、というのは残念だ。


社会学者が──美学(芸術学)という領域・テーマの内部で──美学者を出し抜く必要はまるでない。が、美学が動いている水準

そのタイトルのとおり「感覚」*2かもしれないし、あるいはまた「体験」「経験」であるかもしれないが

から、事柄を 単にコミュニケーションの水準に移すだけで、議論は 大きく変わる。そして──社会学にとっては──問題は そこにしかない=そこにこそある。

もっとも美学者のほうも、現在では──全面的にではないにしても──議論の水準は推移している、と述べるかもしれないが。
またそうだからこそ──半ば(だけ)社会学化された──「受容美学」のようなもの
これは、社会学でいえば、「役割理論」の水準で動いている*3とみなせるものだろう
も登場し(え)たのだろうが。
であればなおさら、その水準*4においてどれほどの貢献ができるのか
つまり、「美学的な区別」を、「美学的ならざる区別」でもって どれほど適切に再記述できるのか
のみならず、そもそも芸術というコミュニケーション自体のうちにおいて既に開始されている芸術の再記述を、いかに適切に再記述できるのか
というところこそが注目されるべき。
だからこそ、この著作は「再記述」をめぐる議論によって閉じられているのだ。
なのだが。はたしてそうハッピーな仕方で、この著作が受容されることになるかどうか...。

*1:しかも特殊社会システム論が芸術についてコメントしようとするなら、これ以外のテーゼは絶対に出て来ようがないわけだがw。

*2:もっとも、第三者的には ほとんどそうは見えないところがこの不可思議な学問の謎──であるように第三者的にはみえるところ──なのだが。

*3:なにしろ看板に「受容」と掲げているのだから、そうなのだろう。

*4:美学における自然発生的社会学