車中。1章。
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この著作の最初のライバルは、「芸術はコミュニケーションである」というテーゼを掲げる──ものや、さらに それに論争的にかかわる──美学的な議論だといえる。
それらは「もっとも重要なライバル」ではぜんぜんないが。
掲げるテーゼが「同じ」である以上、まず最初に、それらからの距離が測られねばならない。その点で言うと、たとえば『開かれた作品』が再三にわたって引用されているのはいいとして、ほかの議論ももう少し丁寧に扱ったほうが──少なくとも「美学系」なかたがたへの導入としては──よかった、ようにも思う。たとえば──私が真っ先に思いつくものを(したがって音楽美学の分野から)挙げれば──ナティエ[1987→1996]の議論とか:
- 作者: ジャン=ジャックナティエ,Jean‐Jacques Nattiez,足立美比古
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 1998/12/10
- メディア: 単行本
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もっともナティエ自身は、エーコの「コミュニケーション論的」な議論を──かなり単純化したうえで、それに対して──批判を加えている気でいるわけだが。
いずれにしても、ナティエがおこなっている「コミュニケーション論」批判は、『社会の芸術』に対してはまるであてはまらない。
「芸術はコミュニケーションである」というテーゼ自体はトリヴィアルなものなので*1、
問題は──少なくとも端緒においては──、その「コミュニケーション」という言葉で名指されているものの扱いがどのように違うか であり、まずはその点こそを読者に吟味させねばならないのに、そこにいく以前に
「テーゼがトリヴィアル」だという理由で議論が素通りされてしまいかねない、というのは残念だ。
社会学者が──美学(芸術学)という領域・テーマの内部で──美学者を出し抜く必要はまるでない。が、美学が動いている水準
そのタイトルのとおり「感覚」*2かもしれないし、あるいはまた「体験」「経験」であるかもしれないが
から、事柄を 単にコミュニケーションの水準に移すだけで、議論は 大きく変わる。そして──社会学にとっては──問題は そこにしかない=そこにこそある。
もっとも美学者のほうも、現在では──全面的にではないにしても──議論の水準は推移している、と述べるかもしれないが。
であればなおさら、その水準*4においてどれほどの貢献ができるのか
つまり、「美学的な区別」を、「美学的ならざる区別」でもって どれほど適切に再記述できるのか
というところこそが注目されるべき。
のみならず、そもそも芸術というコミュニケーション自体のうちにおいて既に開始されている芸術の再記述を、いかに適切に再記述できるのか
だからこそ、この著作は「再記述」をめぐる議論によって閉じられているのだ。
なのだが。はたしてそうハッピーな仕方で、この著作が受容されることになるかどうか...。