宴の始末@フォーラム編

ルーマン・フォーラマー向け資料。(ディスカッションはこちらで:ルーマン・フォーラム
日射報告時の配布資料(引用集)からの引用。

【1-2-2】社会システムの自己構成: 社会秩序の統一性

引用7: 長岡克行 2006『ルーマンisbn:4326601957

[‥]ルーマンは意味の現象学的記述から、指示されているものすべてを次の歩みで同時に顕在化させることはできないというイミでの諸指示の過剰、したがって接続可能性の過剰、選択の不可避性、他の選択もまた可能であるというイミでの選択の偶発性、選択のリスクという問題を引き出している。[‥]/ ルーマンの意味理論では、どのヴァージョンでも意味の指示構造が基礎に置かれている。そうされているのは、[‥]指示されている諸可能性から選択されたものと選択されなかったものとの差異がまさに意味を構成していると見なされているからである。(長岡 2006:209-210)

引用8: 長岡克行 2006『ルーマンisbn:4326601957

 期待という概念は、意味対象あるいは意味テーマの指示構造は濃縮された形式において用いることができるということを示している。この濃縮がなければ、接続操作のための選択負担は大きすぎるものとなろう。意味指示による過剰な諸可能性のなかから、よりうまく、そしてとりわけより素早く定位できるようなより狭いレパートリーを中間的に選択することでもって、期待は形成される。濃縮と確認およびシンボルによる一般化によってモノの同一性、出来事の同一性、類型、概念といったものは規定されるのであったが、シンボルによる一般化は、上のことに照応して、諸期待の網のなかで保持され、再加工されていく。[‥]/ [‥]期待を類型的なものや規範的なものに一般化することは、二重の機能をもっている。

  • それは一方では、予示される過剰な諸可能性の総体から選択をおこない、そうすることで意味のなかで付与されている複合性を、諸可能性を無化することなく再生産する。
  • 一般化はもう一方で、事物的・時間的・社会的のそれぞれの点で不連続性を架橋するのであり、だから状況の変化があった場合にもなおも期待を使用可能にする。

[‥]重要な事態は、総じて過剰に指示される意味指示は選択的に使用されなければならないということ、そしてこの〈なければならない〉は、期待による選び出しというイミにおいて〈できる〉ということである。期待は不連続性に覆いかぶさり、不連続性を架橋し、このイミで一般化としてその実を確証することができる。別の言い方をすれば、一般化は選択として、可能なものを限定すると同時に他の諸可能性を見えるようにする。[‥](長岡 2006:239-240)

引用9: 長岡克行 2006 『ルーマンisbn:4326601957

構造と行為の関係は相互的な可能化の関係にある。そうした考え方をとる場合には[‥]秩序を 秩序から独立の始原 に帰すことを断念しなければならない。(長岡 2006:404)

【注記】
ここ↑にいう「相互的な可能化の関係」を この報告では「構成関係」と呼ぶことにしよう。
この 意味的な構成関係にあずかるもの〈システム〉 と呼ばれ、構成関係にあずからないもの〈環境〉 と呼ばれる。したがって、〈或る社会秩序/その環境〉という境界(=システム境界)意味的なものであって、因果的・時空間的なものではない。
: 〈社会システム〉とは、「社会秩序の統一性」に付けられた名前である


社会システムのオートポイエーシス