涜書:串田『相互行為秩序と会話分析』

昼食。

6章&7章再訪。語用論とかゴフマンとか。

……ゴッフマンが上記の視点の転換を通じて提出したのは、自己が相互行為の中で生み出される「劇的効果(Goffman 1959: 245)なのだという自己呈示論である。この議論は、「印象操作」(Goffman 1959)という概念に引きずられて、戦略的に外観を操作することを基本的人間像とする「魂の商人の社会学」(Gouldner 1970)だと理解されたり、あるいはまた「相互行為儀礼」(Goffman 1967)という概念に引きずられて、互いの面子をつぶさないようにする「困惑回避人間」(Shudson 1984)を基本的人間像とするものだと誤解されたりした。しかしながら、これらの理解はいずれも、「諸個人がいて、そのあとにさまざまな場面があるのではない。諸場面があって、そのあとにさまざまな個人がいるのだ」(Goffman 1967: 3)と述べた彼の理論的洞察とは整合的ではない。むしろ、自己呈示という着想を、状況の定義づけの投射とそれを可能にするふるまいの統語論的関係に注目するという基本的方針の中に、きちんと位置づけて理解することが必要である。
 この観点から、

  • 自己呈示とは、なんらかの統語論的装置によって投射された相互行為の可能な次の軌跡に対して一定の立場を採ることによって、人々が「今何者としてふるまってるか」が認識可能となる、ということだと理解できる。
  • また、参加の組織化とは、統語論的装置によって投射された相互行為の可能な次の軌跡に対するそれぞれの人々の立場が、互いのふるまいの配置を通じて認識可能にされていく過程である。

このような理解に立てば、自己呈示という事態を理解するのに「劇的効果」という比喩に頼る必要はない。それは、相互行為のリソースが持つ投射可能性と参加の組織化過程を通じて認識可能になる「効果」だということができる。
 ただ、ゴッフマン自身は、このような理解に立った場合に要となる相互行為の統語論的装置を、十分な精度を持って記述できたわけではなかった。この文脈で、ターンテイキング組織や連鎖組織という装置が、自己呈示というゴッフマン自身の中心的問題にとっても重要になるのである。これらの相互行為を組織化する連鎖装置は、ゴッフマンが好んだ言葉で言うなら、自己呈示を可能にする「表出媒体」として理解することができるからである。 [p.278-279]

勉強になる。