朝食。
論理学の初等的解説に於いて命題関数が「〜はハゲである」を以て例示されねばならぬのは いかなる規約によりますか。>識者
- 作者: 三上真司
- 出版社/メーカー: 東信堂
- 発売日: 2007/01/01
- メディア: 単行本
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III 同一性とは何か?
- 同一性のパラドクス
- 同一性と内包性
II章。
フレーゲ=ラッセル的見解[への異論]については、[反論のためには]つぎの点を繰り返すだけで充分である。
- 固有名が固有名として使用されている文脈では、「存在する」という述語は不要であり無意味ですらある。逆に、
- 「存在する」が使われる文脈とは、ダメットが言うように、固有名が「空虚でないことが保証されていない名辞」と化すような文脈である(ラッセルにとって、それは「思考」の文脈であった)。こうした文脈において、固有名というカテゴリーはその通常の機能を果たすことはできない。[p.107]
ハイライト。
- 【存在】: 存在汎化
- 【名前】: 存在例化
おそらく、「デフレ派」と「インフレ派」の対立は、視線の一致に関する相対的な対立にすぎない、と言えるだろう。「デフレ派」は、視線の共有が比較的に得やすい「もの」にのみ、「インフレ派」は、視線の共有が得にくい「もの」にまで、「個体」という役割を負わせるという違いがあるだけである。しかしその境界線は流動的であり、ある意味で、そのつど問題となる オペレータδ の解釈次第である。δ(… a …)から‘a’を取り出してそれを単独で扱いうると想定することは、a に対してあたかも視線の共有がありうるかのような振りをすることである。
- 論理的に見れば、「存在する」という動詞は、δ(… a …)という文脈に対する「存在一般化」以上の意味はない(∃I δ(… a …)あるいは δ(… ∃I …))。
- この「一般化」に対して「例化(instantiation)」という操作を加えたものが名前である。
- したがって「存在する」は何ら特別な意味合いをもたない。なぜなら「存在する」はあらゆる「名前」(と見なされているもの)に潜んでいるから出る。
- あるいは、「名前」と同じ意味合いしかもたない、と言ってもいい。
「名前」の根底には視線の共有に対する信念があるならば、この信念は「存在」に先立っている。...[p.120-122]
で、「視線」て?