超越論──アプリオリな構造/アプリオリなカテゴリー

朝食。なにも読む気がしないときのハイデガー

有と時 (ハイデッガー全集)

有と時 (ハイデッガー全集)

ぱらぱらする。


第一批判においては「見て*物を知る」(認識する)ことが問題になっている。我々は、感性的に与えられたものが概念的に加工される、という仕方で 物を知る。見て物を知るときに、そこでどうしても使われざるをえないもの──たとえば「原因」/「結果」といった概念──が、カテゴリーと呼ばれる。
物が与えられるには それらがどうしても使われざるをえない ということも、「原因/結果」というのがそういうもの(=カテゴリー)であることも、このどちらもが、「見て知」られるわけではない。その意味で、それは経験に論理的に先立つ(→「ア・プリオリ」)。そしてまた、こうした構図をもった議論が「超越論」と呼ばれる。

* 知覚して


存在と時間』では、この議論の構図がほぼそのまま引き継がれている。「アプリオリな構造」「アプリオリなカテゴリー」といった術語も、超越/超越論という名称もそのまま使われている。

ついでにいえば、そのプロジェクトは「形而上学」という名で形容されてすらいる。


では何が違うのか。

  • 問われることが、「見て物を知る」から「在ること(の意味)がわかる」に代わっている。
  • 使われている方法が違う。カントは伝統論理学に依拠して分析ができた。ハイデガーはそういうわけにはいかず、代わりに、解釈学的課題設定のもとで現象学という方法が選ばれている。
  •  
  •  
  •  

こうした変更によって、「見る」は、世界への様々な関わり方のうちの特殊なひとつへと格下げされる。

それだけでなく、「見る」こと自体の様々なあり方が分節される。──なにしろ議論は、いきなり Umsicht, Rücksicht, Durchsicht の区別からはじまるのだ。

「手前に在るものを見る」というのは世界とのプライマルな かかわりかたではない。そこから距離をとるために、分析領域は「手元に在るものを使う」というところに移される。 ここで焦点があたっているのは「〜を使って〜する」-というしかたで或るものとかかわりあっているときの-その〈そこda〉において-(何らかの仕方で-すでに)わかっていることである。狙われているのは、その 或るものとかかわりあっているときに(いつもすでに)わかってしまっていること の明確化である。

そして、分析を介して取り出されてくる「アプリオリな構造」は、たとえば「世界-内-存在」や「共在」のようなものに──また「アプリオリなカテゴリー」のほうは「配慮」、「情態性(→現にあるありかたがわかっている)/了解(→ありうるありかたがわかっている)/頽落(→それらを忘れている)」などなどに──代わる。


こうして、同じ構図をもちながら、『存在と時間』の議論の中味は第一批判とは似ても似つかないものとなる。「認識論」は「存在論」に取り替えられる。

正確には。「見て知る」ことは、「ひとと共に-ものと-かかわる」ありかたの一つとして位置づけ直されるのだから、認識論は存在論に「包摂」される、といったほうがよいかもしれない。


なんの話かと言うと。
以前ジェフ・クルターの論文「コンティンジェント・アプリオリ」が話題になったときに、私は「アプリオリ」という語の「認識論的」な響きが気に喰わない、と述べた。

「カテゴリー」という語のほうは、それがすぐに「認識論的問題設定」を呼び寄せる というようには聞こえないのだが(アリストテレスの語用があるから)。

けれども、これはこれ自体偏見だったようだ。ということに、今朝ハイデガーを読んでいていまさらながらに気がついた、‥‥という話。(と書くと、「ハイデガーも使ってるんだし いいじゃないか」と言っているように聞こえますが...

もっとも、この言葉を使うことにはやはり躊躇を覚えるが。
と同時に、ハイデガーが、『存在と時間』のあとで、〈存在論アプリオリ|カテゴリー|超越論|形而上学〉という──存在論的-神学的-論理学的-形而上学の──ターミノロジーをワンセットで捨て去った事情について、あらためて知りたくなった。‥‥という話。