朝食。なにも読む気がしないときのハイデガー。
- 作者: M.ハイデッガー,Martin Heidegger,Hartmut Buchner,辻村公一,ハルトムートブッナー
- 出版社/メーカー: 創文社
- 発売日: 1997/12
- メディア: 単行本
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第一批判においては「見て*物を知る」(認識する)ことが問題になっている。我々は、感性的に与えられたものが概念的に加工される、という仕方で 物を知る。見て物を知るときに、そこでどうしても使われざるをえないもの──たとえば「原因」/「結果」といった概念──が、カテゴリーと呼ばれる。
物が与えられるには それらがどうしても使われざるをえない ということも、「原因/結果」というのがそういうもの(=カテゴリー)であることも、このどちらもが、「見て知」られるわけではない。その意味で、それは経験に論理的に先立つ(→「ア・プリオリ」)。そしてまた、こうした構図をもった議論が「超越論」と呼ばれる。
『存在と時間』では、この議論の構図がほぼそのまま引き継がれている。「アプリオリな構造」「アプリオリなカテゴリー」といった術語も、超越/超越論という名称もそのまま使われている。
では何が違うのか。
- 問われることが、「見て物を知る」から「在ること(の意味)がわかる」に代わっている。
- 使われている方法が違う。カントは伝統論理学に依拠して分析ができた。ハイデガーはそういうわけにはいかず、代わりに、解釈学的課題設定のもとで現象学という方法が選ばれている。
こうした変更によって、「見る」は、世界への様々な関わり方のうちの特殊なひとつへと格下げされる。
「手前に在るものを見る」というのは世界とのプライマルな かかわりかたではない。そこから距離をとるために、分析領域は「手元に在るものを使う」というところに移される。 ここで焦点があたっているのは「〜を使って〜する」-というしかたで或るものとかかわりあっているときの-その〈そこda〉において-(何らかの仕方で-すでに)わかっていることである。狙われているのは、その 或るものとかかわりあっているときに(いつもすでに)わかってしまっていること の明確化である。
こうして、同じ構図をもちながら、『存在と時間』の議論の中味は第一批判とは似ても似つかないものとなる。「認識論」は「存在論」に取り替えられる。
なんの話かと言うと。
以前ジェフ・クルターの論文「コンティンジェント・アプリオリ」が話題になったときに、私は「アプリオリ」という語の「認識論的」な響きが気に喰わない、と述べた。
けれども、これはこれ自体偏見だったようだ。ということに、今朝ハイデガーを読んでいていまさらながらに気がついた、‥‥という話。(と書くと、「ハイデガーも使ってるんだし いいじゃないか」と言っているように聞こえますが...