涜書:ガダマー『真理と方法』II

存在と時間』では、カントの第一批判に倣った超越論的な道具立てを用いて議論が展開されていた。後にこの道具立ては ハイデガー自身によって捨て去られる。捨てられたことにはそれなりの事情があるわけだが、その事情を承知の上で ここでガダマーは、捨てなくてもよかっただろうものを拾おうとしている。

第二部 真理の問いを精神科学における理解へと拡張する

第I章 歴史的準備
第3節 現象学的探究による認識論的問題設定の克服

[...]

[...] もし、観念論的思弁の呪縛圏を本当に突破しようとするのであれば、〈生〉の存在様態を自己意識から考えてはならない、ということは明らかである。『存在と時間』のハイデガーは、自らの哲学を超越論的哲学として理解していたが、この理解をのちに修正しようと企てた際に、当然の帰結として、の問題が新たに視野に入ってきたはずである。それゆえ彼は『ヒューマニズム書簡』において、人間と動物とのあいだに口を開いている深淵について語っているのである。現存在の分析における基礎存在論の、ハイデガー自身による超越論的基礎づけが、生の存在様式の積極的な展開をまだ許すものでなかったということは、疑いがない。ここには未解決の問題がある。しかし、だからといって、次のことにはどんな変更もない。すなわち、もし〈気遣い〉という実存疇(Existenzial)に対して ある特定の実存理想を、それが如何なるものであろうと、対決させることができると思うならば、ハイデガーが実存論的と呼んだものの意味を根本的に理解しそこなってしまうのである。そのように思う者は、『存在と時間』が最初から開いていた問題設定の広がりを捉えそこなってしまう。そのような短絡的な論争から身を守るためにも、ハイデガーは、カントの問題設定が超越論的であったのと同じ意味において、超越論的意図を持ち出してよかったのである。彼の問題設定は 最初からあらゆる経験的な差異を、それとともに あらゆる内容的な理想形成をも、超え出ていたのである。
 この意味において、われわれもまた、ハイデガーの問題設定の 超越論的な 意味を手がかりにしよう。ハイデガーによる理解の超越論的解釈によって、解釈学の問題は普遍的な姿をとる、いやそれどころか、新たな次元へと拡張する。解釈者がその対象に帰属していることは、歴史学派の反省の中では適切な正当性を認められていなかった。だが、いまやこの帰属性が具体的に示せる意味がえられる。そして、この意味を示すことが解釈学の課題なのである。現存在の構造が被投的な投企であるということ、現存在は その固有の存在遂行に従えば 理解 であるということ、このことは、精神科学において おきている理解の遂行にも妥当するはずである。理解の一般的構造は歴史的理解において具体化の段階に達するのであるが、それは習俗と伝承の具体的な拘束や、それに対応する自らの未来の可能性が、理解そのものに働くようになることによってである。自からの 存在可能性(Seinkönen)に向けて自己を投企する現存在は、いつもすでに〈存在してしまってgewesen〉いる。これが被投生という実存疇の意味である。自らの存在への自由な態度はどれも、この存在の事実性の背後に遡及できないということ、ここに事実性の解釈学のポイントがあったのであり、また、フッサール現象学の超越論的な構成的研究との対立点もあった。現存在の投企を可能にし制限しもするものが、追い越せないものとして 現存在に先立って[=a priori]いるのである。現存在のこの実存論的構造は 歴史的伝承の理解においてもはっきりと現れているはずで、それゆえわれわれは、まずはハイデガーに従って歩むことにしよう。

ガダマー(1960)『真理と方法』II(法政大学出版局)(p.417-419)

ここは「解釈学を新たな仕方で提示するための準備」にあてられたセクションの最後の場所であり、この方針にもとづいて、次のセクション──第II章「《解釈学的経験の理論》の要綱」──が展開していく。

真理と方法〈2〉 (叢書・ウニベルシタス)

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有と時 (ハイデッガー全集)

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