ハイデガー拾遺


先方のコメント欄で面白いことを言っている人がいるので曝しアゲておきますよ。
http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20081225/p1#c

deepbluedragon 2008/12/25 15:26

後からアレ?と思って「いかなる形而上学からも逃れることはできない」に書き換えてみたのだが、それでもどうもしっくりこない。なんか「少なくともひとつから逃れることができない」なのか「すべてから逃れることができない」なのかいまいち分かりにくい気がしてきた。ここではもちろん後者なんて馬鹿なことはなくて前者を意図してます。あぁ、なんかこれってなんか形式意味論の議論で見たことある気がする。でも、解説書けるほど形式意味論に私は詳しくないです、残念!

だから....。
自分の言いたいことがなんなのか、自分でもよくわかってないだけじゃんよ。


deepbluedragon 2008/12/26 01:05

どうせこれから先ハイデガーについて語ることはないだろうからここに書いちゃえ

Ontotheology(存在神学)の話をするなら神の存在論的証明をしなきゃいけないのか?やっかいだなぁ…と思っていた私は深く考えすぎていたのだろうか。どっちにせよその話はもうする気もないからどっちでもいいけど。
実はいままでは文学的な語り口に違和感があったのだが、最近は「あることを端的にある」と捉えているかのような気がして、もしかしてfinalventさんはハイデガーの良き理解者なのかもしれないと思うようになった。

せっかく打ち込んだ引用も勿体無いのでここに出してしまおう
否定神学に関連して

古代西洋の哲学者たちは何らかの意味で承認していたけれど、究極の実体は概念作用を持って把捉することができないという見解は、非常に古く、おそらくナーガールジュナからあまり遠く隔たらない時代に現れている。
プラトン派およびグノーシス派の思想形態、特にプロクロスやダマスキオスのような後代の新プラトン主義者たち、またそれらがキリスト教的な形態をとったものとしてオリゲネースやディオニュシオス・アレオパギタなどの諸著作がそれである。特に後者の『神秘神学』は『般若心経』のキリスト版であるとさえいわれている。
中村元「龍樹」isbn:4061595482 のp.440-1より

これを次の引用とセットで読むといいでしょう

ハイデガーが彼の教義の反-形而上学と反-神学に忠実であろうとするかぎり要請せざるをえないSeinohne Seiendes(「存在者なしの存在」)なるものはDeus absconditus(隠れたる神)やアリストテレスの不動の第一動者やアウグスティヌスの超越主義が考えることも語ることもできないのと全く同じ意味で、考えることも語ることもできないものなのだ。
ジョージ・スタイナー「マルティン・ハイデガーisbn:4006000178 のp.21-2より

なにがいいんだか.... 

><

  • 私に神学についての教養が欠けている というのは「正しい」推測だけどさ。
    とはいえ、蒼龍先生よりも欠けているかどうかなんて まったくもって定かじゃないと思うけど。
    いま、キリスト教神学の知識が必要になるような話してたんですか? 少なくとも、私のほうはしてないよ。だから、目下の話題を進めるのに、私に神学についての教養が欠けていることなど何の関係もないと思うけどなぁ。
  • 「存在神論」ってのは──ハイデガーの場合は──、なにしろまずアリストテレス形而上学』講義読解のなかで登場してくる規定*なんだから、それを、真っ先に「神の存在論的証明」だの(下のコメントに出てくるけど)キリスト教)神学だのに関連づけてしまうのは おかしいんじゃないですかね。
* 「存在神論」という規定の中の「神」というモメントは、『形而上学』の中でアリストテレス自身が用いている「神的なもの(to theion)」という表現に由来するわけで。 ** ついでに一言書いておけば、ハイデガーは、この時期には、「存在-神-論」としての形而上学の──「存在者」と「神的なもの」との間の──対象規定のアンビヴァレンスをハイデガー自身が引き受けて、一時は自分のプロジェクトにも〈基礎存在論|メタ存在論〉という名前まで用意していた。そして「転回 Kehre」とは、このプロジェクトにおいて、分析の進捗とともに 基礎存在論がメタ存在論へと移行・展開していくことを指す言葉だった。
このあたりについては、たとえば前掲、斎藤『思考の臨界』、轟『存在と共同』などを参照のこと。
  • あと、スタイナーに加えてさらに中村元(笑)まで持ち出してきてくれてるけど、(前エントリのコメント欄で)すでに述べたことをもう一度繰り返しておきますよ:
    ジョージ・スタイナー(&中村元)の言葉については、まずはなにしろ、これが なぜなんのために引用されているのか、目下の話題のどこにどう関わるのか、蒼龍さん自身はスタイナー(&中村元)の主張についてどう判断しておられるのか、などなどについて教えてくださいね♪
DrMarks 2008/12/26 06:59

クリスマスの多忙にありながらも蒼龍さんを覗いてみたら只事ではない。お陰で外出予定を延ばしてまで探してみましたよ。見つかりましたが蒼龍さんがわざわざ明らかにしないので私もどこのサイトかは書きません。しかし、私の探したところが「そこ」であることは間違いないでしょう。

まず、学者の倫理 などということは大嫌いな私でも、はっきり言って異常に嫌味な物言いだと気分が悪くなりました。確かに、学者がブログで随筆的に自由に書いたものをあのように言わなければならないものかと不思議でなりません。しかも、自分の書く内容に関しては逆に「このブログはメモ帳」だとか「私はあなたのために書いているわけではないのです」などと、自分だけは言い訳をしている気がします。

以上で終わりにしたいと思いますが、一応公平な立場で読めば、彼(彼女ではないですね)の説明はわかりやすいが、ほとんどの根拠を自分の原典の読み込みではなく、他人の(他の研究者の)議論で「証明」まで持っていっていることには驚きました。あと、細かなことですが、あの記事の少し前(数日前)私のブログでハイデッガーの「日常性」に触れました。彼は、ハイデッガーの後期と言っていますが、私の引用で明らかなように前期からの概念です。また、これは(ハイデッガーのいつもの手で)彼の創作のようにしていますが、フッサールの「生活世界」からインスパイアされたものだと思っています。更に細かなことですまないと思いますが、あの方に、どうせ原語を入れるならウムラウトくらい付けておかれたら と言いたいところですが、もう言うつもりもなくなりました。

蒼龍さん、哲学なんて議論だけしていたらつまらないし、新しい考えも浮かびません。外野は無視して随筆で行きませんか。

  • 俺、学者じゃないし。
  • 「エッセイ」レベルのエントリに、こちらも「エッセイ」レベルのエントリで返しただけだし。
  • 「日常性」が後期のキーワードだなんて書いてないし。
君はそれでも学者か?などと言うつもりはありませんが、しかし、いったいどこをどう読んだんでしょうかね。
  • 『論理学諸研究』[1905/1913/1921]、『内的時間意識』[1904-5] 、『イデーン I』[1913] までのフッサールしか知らなかった・1920年代のハイデガーが、フッサールの「生活世界*」からインスパイアされたとかって、これはまた大胆なご意見ですね(棒読み
* だって、この言葉が、フッサールの著作の中で術語として前面に登場してくるのって1930年代ですよ?
ex.『危機』[1935講演/1936刊行。 ISBN:4122023394 ]、『経験と判断』[1919-20講義/1938刊行 ISBN:4309242154 ]
ただし、遺稿研究者によると、遺稿中の初出は1910年代半ば頃までは遡れるようではありますが。
deepbluedragon 2008/12/27 00:10

年末のお忙しいところDrMarksにまで迷惑をかけてしまってすいません
(DrMarksのブログは見てます!)

実はここのブログの中にそこへのリンクがすぐに見つかるのですが、あまりに不愉快なのでどこかは書きません。おそらくそこで間違いないと思います。日本語のネット圏にはおかしな人がたくさんいることは分かってるのですが、いざ自分がそれに巻き込まれるとなると本当に気分が悪くなります。ギャラリーの目を気にして自尊心を守ることしか考えていない人を相手にまともな会話なんてできそうにありません

自分も原典の読み込みなんてろくにしているとは言えないので恥ずかしいところがあるのですが、でも何でそこまで(批判を通り越して)非難をされないといけないのかとゲンナリしました。 彼が(ブックマークのコメントで)お前はOntotheologyを分かってないと言っているのですが(私のような素人から見てさえ)その彼が当の神学を理解しているかはどうも怪しいです ある程度の必要な情報はそのブログの自分のコメントでも示したので、あとは読者で勝手に判断してもらえばいいと思います。それから、木田元は「ハイデガー存在と時間』の構築」isbn:400600009xハイデッガーの「世界内存在」の概念はマックス・シェーラー(世界開在性)からの影響もあると言っていますし、さらに辿るとユクスキュルなどの(特に生態学的な)生物学も関係があると言っています(そういえばこの同じ本のあとがきで木田元は、日本にはハイデガーの信者と言った方がよさそうな人が大勢いる、と言っているなぁ)。

少なくともDrMarksには理解してもらっていると分かったのはありがたいのですが、さすがにハイデッガーについて書く気には当分なれません。

  • なんというブーメランアタック! 素敵♪

><

  • 「非難」なんてしてないし。(disったんだよ。)
  • それで、世界内存在の概念に対するシェーラーやユクスキュルなどからの影響*という論点は、目下の話にどう関係あるんですか?
* あったか否かでいえば、そりゃあったんじゃないですかね。 で、だからなに?

><

ちなみに、こんな見解もあるので紹介しておきますよ:
環境世界(Umwelt)と 世界(Welt)の区別は、フォン=ユクスキュル(Von Uexküll)とヘルムート・プレスナー(Helmuth Plessner)の研究において大きな役割を果たしているが、ここではハイデガーはそのような区別をしていないと思われる。この区別を哲学的に仕上げていく作業については、スタニスラス・ブルトンの諸研究が参考になる。一例として,次の著作を挙げる。Stanislas Breton, Du Principe, Paris, Aubier Montaigne : Ed. du Cerf : Delachaux et Niestle, 1972, p.1-20. ジャン・グレーシュ『『存在と時間』講義』p.583(40)
  • 「日本にはハイデガーの信者と言った方がよさそうな人が大勢いる」 に加えて、日本には木田元の信者も大勢いる と書き添えておいた方がいいでしょうね!
匿名 2008/12/27 18:56

僕も同じ人に絡まれたことがあるので、正直、気持ちわかります。自分の見解をまとまったものとして積極的に提示するのは不得手なくせに(むしろだから?)他人を批判するときだけやたら張り切るんですよ。眼高手低の好例です。放っておけばいいんですよ。

m9(^Д^)プギャーーーッ
匿名 2009/01/02 15:03

あの人は少し病気です。勝ち負けにこだわり正気を失ってしまうのです。残念です。たまに発作が起きるようです。

たいへんだなぁ。

というべきか、簡単だなぁ、というべきか。


反応リンク

コメント欄:

DrMarks 2009/01/03 17:08

あれー、クリックしたらオイラの名前が。
以下、少し真面目に。オイラはフッサールに始まりフッサールで終わってしまった元哲学徒です。(デカルトは過ぎたけどハイデッガーに達する前!)つまり「辞め哲学徒」ですから哲学なんか嫌いです。あんなの馬鹿みたい、なんちゃって。
そんなわけで現在は聖書学に逃げていますが、振られた女を思い出すようなものでときどき哲学を思い出してしまうんですねー。それにフッサールだけは変わらず好きなもので目がぴくぴく。
ところで呂律さんが一応逃げはうっていますが、哲学者がそのアイディアをいつ持っていつ学生や身近なものに開陳したか(いわゆる terminus a quo)などは出版年(Krisis の場合「ウィーン講演」が初め)などではわからないのです。ええ、Lebensweltのことですよ。

DrMarks 2009/01/03 17:20

業ゆえに疑り深いから、オイラは入門書なんて信用しない。だから読まない。(読むこともあるけど、時間の無駄。)

えーと...
あとで暇があればなんか書くかも。