涜書:守永『未知なるものへの生成』/ハッキング『表象と介入』

昼食前半。
ぱらぱらする。

未知なるものへの生成―ベルクソン生命哲学

未知なるものへの生成―ベルクソン生命哲学

むつかしいよ...。ちんぷんかんぷん(死語)。
http://socinfo.g.hatena.ne.jp/keyword/2007%2d09%2d09?kid=14


昼食後半。

表現と介入―ボルヘス的幻想と新ベーコン主義

表現と介入―ボルヘス的幻想と新ベーコン主義

いやぁ。こっちは和むわ。
言語はなぜ哲学の問題になるのか』は1975年。これ↑は1983年。
この二つの間にハッキングは実験室に行き、電子を“ふっ”と吹きかける物理学者をみて、「実在論者」になった(のか?)。

  • 「表現」──あるいは〈構文論/意味論〉という区別──は、【物への関わり】を含まない(そこにあるのは「指示」の関係である)。
  • 他方、「介入」とは、【物への関わり】である。
    • なにしろ、“ふっ”と吹きかける──介入──ことができるのならば、電子は「ほんとうにある」。

‥‥ この議論におかしなところはない。 ・・・というところを出発点にして、「実在論のどこがダメまずいか」について──ふたたび*──ぼんやりと考えてみる午後。

* むかし考えたこと。


つまり──ぼんやりとした結論はこのようである──、その事態・議論↑そのものと、実在論」という立場を採ることとは、違う。ということ。

  • 【物への関わり】を実在論という語で表現すること は──そこでいう「実在論」なるものが、観察者の採用する「論」なのであれ、(観察者によって)フォークセオリーだと見なされているのであれ──当の【物への関わり】を飛び越した議論ではないのか、ということ。
    言い換えると、観察者による 修正remedy ではないのか、ということ。
  • 逆に言うと、【物への関わり】を適切に捉えることができていない -ところでこそ/からこそ-、まさにこの語が召喚されるのではないのか。ということ。