出版準備中の本、ついに「あとはほぼ あとがき だけ」というところまで来てたんだけど、たった4000字書くのにひと月かかっちゃったよ。
おかげでこの間ほとんどなにも手についてない状態。
全方位的にあれこれ滞っていてもうどうしようもない。いろんなみなさま ほんとにごめんなさい。
というわけで、そろそろあれこれ再開しようと思うんですが、まずはちょっとリハビリもかねて、蒼龍先生のこのエントリを dissってみようかな、と思います:
なぜこのエントリを取り上げようと思ったかというと、蒼龍先生のブログの読者は 認知科学に関心のある人たちだろうから。
認知科学に関心がある人なら その教養リストにハイデガーも加えておいて損はないはず(だと私は思う*ん)だけど、あのエントリを見たら「ハイデガー読まなくていいや」と思ってしまう人のほうが多いだろう ──と思って暗い気持ちになってしまったのが一点。もうひとつは、こうした仕方でハイデガーを理解している蒼龍先生が、「私はハイデガーの価値を否定していません」と言うとき、その「価値」っていったい何なの?というのを聞いてみたいと思ったから。でした。
- 作者: 門脇俊介,信原幸弘
- 出版社/メーカー: 産業図書
- 発売日: 2002/04/01
- メディア: 単行本
- クリック: 6回
- この商品を含むブログ (7件) を見る
蒼龍先生のエントリは、ニーチェ講義の一節をとってきて なんか好きに喋ってみました、という感じのものなので、それを検討しようとするなら 普通はテクストに即して解釈の妥当性を検討するところでしょう。しかし、あれこれ雑多なトピックがちりばめたこのエントリ、ざっと読むと それらが繋がってストーリーを作っているように読めるかもしれないけど、トピックを一つずつ見ていくと どれもアレなことになっております。なのでこれは「テクスト解釈-以前」のものだと判断して、以下ではニーチェ講義も、ハイデガーのその他のテクストも(ほぼ)参照してません。
とはいえ、これからハイデガーについて私が述べることに対して、蒼龍先生には異論があるかもしれません。その時には、それを教えていただければ、その時点で 必要なテクストに立ち返って議論をやり直させていただきます。
- ハイデガーは、科学と技術の差異を無視している。
前置きは以上。コンテンツは次の通り:
さて。蒼龍先生のこのエントリ、主要主張がどれであるのか、というのを見て取るのも難しいのですが、候補となるのはまずはこれでしょう:
[P] といっしょに次のような主張も行われています:
それはさておき。
以下、[N] について簡単に触れたあと(→1.)、[P] について検討します(→2.)。
1. 否定神学について
「否定神学」は、「哲学」と近いくらいに旧い名前であり、それについて論じるなら、まずは「誰の」否定神学のことを言っているのかをはっきりさせてくれ、と言いたくはなるところです。私自身は、この名前を蒼龍先生のように気軽に使う勇気はないのですが、しかし、あまり哲学史に深く立ち入ることなく指摘できることはいくつかあるので、それについて触れておきましょう。
11 アリストテレス v.s ネオプラトニスム
「形而上学」という名称が アリストテレスに結びついたものである一方で、否定神学・イデア論・流出論などは(ネオ)プラトニスムに結びついたものです。なので、ふつう、「アリストテレス v.s ネオプラトニスム」という対立図式のもとで後者にコミットする人は、「形而上学」という名前は避けるのが筋というものではありましょう。もっとも、なにしろ「形而上学」という名前には長い歴史があるので、もっと拡張的な使用例があるかもしれませんし、「否定神学」的主張を「形而上学」の名の下に行う、ということだってあったかもしれません。けれども、少なくとも、蒼龍さんが用いている「形而上学(イデア論+流出論)」 のような表現は、自明なものではないのではないでしょうか。
ここでは一つだけ、中世哲学史の本 ISBN:4794804415 から、ディオニュシオス・アレオパギタ*の継承のされかたに関する記述を拾っておきます。
><
ドミニコ会士モースブルクのベルトルト(1360年頃)は、[...] 人間が神となること、すなわちホモ・ディヴィヌスが、ディオニュシオスの標語であると同様プロクロスの標語でもあるということに気づいた。そのことによって彼は、プロクロスとディオニュシオスがどれほど類似しているかを実際に確かめ、二人をともにアリストテレスに対立するプラトン主義者に列した、ラテン中世で最初の著作家となった。ディオニュシオス-プロクロス的プラトン主義がアリストテレスの『形而上学』に対立するのは、その合一論という文脈においてである。アリストテレスの形而上学的な知恵と、プラトン主義者たちの「神的な超知恵」が、中世の一人の著作家において明白な形で競いあうことになった。ベルトルトのいう〈われわれの知恵〉は、ディオニュシオスが 結合 unitio とか 統一 unitas(合一の訳語にあたる)と呼び、プロクロスが〈魂の合一 unum animae〉と呼んだ認識原理にしたがって、様々な神的実在と向き合うのであり、その限りであらゆる形而上学に対して超越的たろうとしているのである。
ディオニュシオスとわれわれの著作家(プロクロス)に従えば、(プラトン主義者たちの)認識原理、いいかえれば魂の合一あるいは結合は、次のような卓越性をもっている。すなわち、魂が、神のうちに完全に住みつくことによって神と似た物になる、ということである。したがって、われわれがもっているこの高次の知恵のあり方は、学知のもつあり方だけでなく、知性すなわち知恵のあり方をも含めた、他のあらゆるあり方を超えている。アリストテレスは、この知恵から彼の第一哲学の原理を引き出したのだが、彼の第一哲学は〈存在である限りでの存在〉を扱うがゆえに、結局諸存在しか扱わないのである。
このように、アリストテレスの形而上学的かつ知性的な知恵を合一という高次の知恵に従属させることは、14世紀のさなかになされた〔アリストテレスからの〕断絶の意志表示であり、その反響は、15世紀の終わりになって、ニコラウス・クサヌスとマルシリオ・フィチーノのもとでやっと聞き取れるのである。
アラン・ド・リベラ『中世哲学史』(p.39-40)
12 (現前の)形而上学としての否定神学
さて。
否定神学という論点については、もう一つ別の応え方ができます。つまり、
- 存在者の分類(=カテゴリー)を超出するもの・「いかなる肯定的言述をも逃れる対象」へと至ろうとする考え方
は、そもそも「カテゴリー-と-否定(という論理的操作)」に依拠してこそ成立しうるものです。その意味で、
- カテゴリー論と否定神学は、同じ穴の狢である
……と。
そしてその意味で、(あくまで蒼龍さんが指定した意味での、ですが)「否定神学」は、(次項で述べるような)ハイデガーの「形而上学批判」の圏域内にある、と言えるのではないか、と私は思います(後述→★)。
2. 「ハイデガーの形而上学」について
では次に、
について。
21. 存在論的カテゴリー
ここでは『存在と時間』での主張を簡単に確認することにしますが、この時期の議論を選ぶのには二つの理由があります。ハイデガーの見解は 長い研究人生のなかでかなり変わっていますが、そうはいっても、どれも『存在と時間』期のプロジェクトの──挫折から生じた──バリエーションではあるので、これを押さえておくのがよいと思うからです。それが理由の一点目。
そしてまた、蒼龍先生のエントリで一番の問題は、ハイデガーが「形而上学批判者」であるまえに、まず「形而上学(の改訂的構築)者」であった、ということが「一顧だにされていない」ことだと思うからです。これが理由の二点目。
正確にいうと、『存在と時間』には 形而上学という言葉自体は あまり出てこないわけですが、これについては、「控えていた」と「避けていた」という二種類の解釈があります(そして、おそらく後者のほうが標準的見解でしょう)。とはいえ、この時期の主題が「存在の了解」という観点からの「存在論」の構築であり、これは、形而上学期における、(目指されるべき)「形而上学」と重なるので、ここでは一緒に扱います。
そして実際、[P] は、『存在と時間』において提出された見解を見てみれば、誤りであることはあっさりと確認できてしまいます。
では、あっさりと。
ここでは門脇俊介氏による解説(『『存在と時間』の哲学〈1〉』)を借りましょう:
『存在と時間』のハイデガーは、現存在、事物的存在性、道具的存在性 の三つの存在論的カテゴリーを区別できるとみなし、現存在と道具的存在性という、より根本的なカテゴリーがこれまで見落とされ、すべての存在者が 事物的存在性のカテゴリーを使って理論化されてきたと考える。もちろんこのことは、人間や道具的な価値が、すべて唯物論的に解されてきたということなのではない。[...] 要は、事物的存在性とは、実在的な事物にだけではなく、心のような存在者にも、あるいは言葉にすらも共通に適用される存在論的カテゴリーであって、その本質は、現存在の通常の存在了解の生じる「世界」、あるいは「コンテクスト」を無効にして、存在者をとらえることを可能にする、という点にある。
門脇俊介『『存在と時間』の哲学 I』(p.51-52)
このように、『存在と時間』では、新しく創案された「存在論的カテゴリー」が、旧来の形而上学的カテゴリーに
対置して呈示されているわけですから、これでもって、
ということまでは言えました。(Q.E.D.)
22. 凡庸さと深遠さ──日常的実践の分析を介した存在論の改訂について
ハイデガーの(特に後期の)テクストに秘教的な響きがあることは、多くのハイデガー研究者もおそらく否定はしないでしょう。私もそう思います。しかし、蒼龍先生のように、「凡庸さ」と「深遠さ」とを単純に対置したうえで、ハイデガーを後者に割り振るような所作は、ハイデガーに対してアンフェアにすぎます。というのも、それまで哲学者が目を向けてこなかった「日常性 Alltaeglichkeit」の分析の哲学的重要性を最初に明らかにしたのは──そしてそれだけでなく、ある程度は実際に分析もしてみせた* のは──他ならぬハイデガーなのですから。
そして、蒼龍先生のこうした見解は、結局のところ、ハイデガーにおける形而上学再興プロジェクト(と、そこにおける「旧来の形而上学に対する批判(=解体-構築 De-struktion**)」)の意義が理解されていないからこそ登場する見解なのではないかと私は思います。
そこで、前項の敷衍もかねて、『存在と時間』において企てられた 日常的実践の分析(〜基礎存在論)というプロジェクトについて──ここでも解釈者たちの言葉を借りて──簡単に確認しておきます。引用は『ハイデガーと認知科学』から:
ウィトゲンシュタインに先んじて、ハイデガーは、フッサールへ応答するという形で、日常世界および椅子やハンマーなどの日常的対象を現象学的に記述してみせた。そして、そこでわかったのは、やはりウィトゲンシュタインにおけるのと同様、日常世界は、コンテクストを欠いた要素の集合によっては表現=表象することができないということである。ハイデガーは、事象に「出会う」仕方には、「述語の集合によって定義されるような対象」としての事象に関係する以外にも、また別の仕方があるということを指摘したわけであるが、まさにそれによって、フッサールはこの問題に直面せざるを得なくなったわけである。ハイデガーによれば、我々は、ハンマーなど何か一つの道具を使用する際、
- 何らかの技能(それは、心の内で表現=表象される必要はない)を
- 道具連関、目的連関、人間の役割の連関など、社会的に組織された連関(これも事実の集合として表現=表象される必要はない)をコンテクストとする中で
顕在化させる。このようなコンテクストすなわち世界、そして、そのようなコンテクストの内で我々が技能による処理を行う際の様々な日常的な仕方──ハイデガーはこれを「配視」と呼んだ──、これらは、我々が 思考するところのものではなく、我々の社会化の一部をなすもの なのであって、我々が 存在する 仕方 [the way we are] を形成しているようなものなのである。ハイデガーはこう結論づけている。
ドレイファス&ドレイファス(1988→2002)「心をつくるか、それとも、脳のモデルをつくるか。分岐点に戻る人工知能」『ハイデガーと認知科学』(p.41-42)コンテクスト[指示連関; Verweisungszusammenhang]を、人は、形式的には一つの関係体系という意味において捉えることができる。しかし...これらの「諸関係」や「諸関係項」は、それらの現象的内実からみれば、いかなる数学的な関数化にも逆らうのである。それらは、なんら思考されたものでもなく、ある「思考作用」の内で初めて定立されたものでもなく、配慮的に気遣いつつある配視[concernful circumspection; besorgende Umsicht]そのものがそのつどすでにその内に住み込んでいる諸関連なのである。[Heidegger(1927)Sein und ZeitS.88]
** ハイデガーによる旧来の形而上学に対する「批判」──「存在論の歴史の解体-構築 De-struktion」──についても一文引用しておきます。上掲『『存在と時間』の哲学〈1〉』から:
ハイデガーにとっては、現存在の理論的な自己解釈についての歴史的探求である「存在論の歴史の破壊(Destruktion)」は、批判的に過去の存在論の伝統を葬り去ることではなく、この伝統のなかで現存在の 存在了解を隠してしまう 根本要因を探し出し、この伝統のなかに隠されている 未開発の解釈の可能性を見出そう とするという、積極的な仕事なのである。[p.35-36]
〈事物的存在性/道具的存在性〉を巡る議論は、さらに「気分」や「雰囲気」についての検討によって補完されていきますが、それはそれとして、この区別が『存在と時間』に分け入っていくための最初の手がかりであることまでは間違いありません。そして、このエントリの目的にとっては、上記引用文から、最低限次のことを確認しておくだけで足ります。
- 〈事物的存在性〉という規定の眼目は、「見て物を識る」という活動が範例になっているところにある。
- 〈事物的存在性〉は、その存在者への関わりのコンテクストを度外視したしかたで「見る」という態度(theorein〜理論的態度)に対応したものであり、旧来の形而上学的カテゴリーは、概ねこちら側に入ってしまう。[★]「視えないものを観る」とか「カテゴリーを超えるものを捉える」とかいうようなのも含めて。
- 〈事物的存在性〉は、その存在者への関わりのコンテクストを度外視したしかたで「見る」という態度(theorein〜理論的態度)に対応したものであり、旧来の形而上学的カテゴリーは、概ねこちら側に入ってしまう。
- この議論の(最初の)ポイントは、範例となる活動を、日常的な実践──物との関わりの中で人と出会うこと/人との関わりのなかで物と出会うこと──に移しかえた所にある。
- 〈道具的存在性〉とは、実践において出会われる存在者 がもつ規定である。
- そしてここでの課題は、実践のもとで つねに-すでに-ともに 与えられているにもかかわらず、
「見る」という態度(=理論的態度)にとっては、目立たないままになっていて飛び越されてしまっている
この「出会い」の可能性条件*-としての-コンテクストを、掘り起こしていく、というものになる。
以上から、蒼龍先生の主張に対置して、次のように述べることができます:
- [-P] ハイデガーの形而上学批判は、「いかなるカテゴリーをも越えようとする」タグイのもの ではない。
- [-N]「いかなる肯定的言述をも逃れる対象」についての議論が ハイデガーの形而上学批判を逃れることはない。
このエントリはここまで。
関連エントリ
- ドレイファス『世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学』について http://d.hatena.ne.jp/contractio/20050831/1125429662
- 現象学的社会学、なるものについて http://d.hatena.ne.jp/contractio/20070914/p1
- 門脇俊介『現代哲学の戦略―反自然主義のもう一つの別の可能性』 http://d.hatena.ne.jp/contractio/20071213/p5
- アプリオリな構造/アプリオリなカテゴリー http://d.hatena.ne.jp/contractio/20070329#1175128901