涜書:マルティン『形而上学の源流』

掃除をしたら出てきたのでついでに読んでみた。
「存在としての存在」という発想──存在とは何か、同一者とは何か、という問い──がどのように登場したのかについて、ソクラテスプラトンアリストテレスの教説を カンティアンが紹介しますよ、という本。

形而上学の源流 (1978年)

形而上学の源流 (1978年)

原著: Gottfried Martin (1957) Einleitung in die allgemeine Metaphysik.
タイトルに謂う「一般形而上学」というのはヴォルフ用語で「存在論」のこと。

目次

  • 第1章 普遍的なものの発見 [ソクラテス
    • 勇気とは何か [『ラケス』]
    • 徳とは何か [『メノン』]
    • 知識とは何か [『テアイテトス』]



 [本書ではやらないけれども、] 同一者とは何かという問題の経緯を、その起源から現代にいたるまで跡付けてみるのも、もちろん興味のあることではある。その場合、今日では、自然の同一性をささえる自然法則こそが、もっとも重要な同一者の問題になっていることは明らかであり、この時代に、同一者とは何かと具体的に問うことは、何がまさに自然法則なのかを問うことにほかならないであろう。[p.5]

プラトン

kata [いっさいを貫いて]

 「いっさいを貫いて」(73D[『メノン (岩波文庫)』])という、この新しい用語法で、プラトンは、ひとつのことが、多くのものについて成り立つことを述べているのである。ギリシャ語の kata という前置詞は、属格支配の場合、まず、「上から下の〜へ」という意味をもち、ついで、「それが上から下の〜にいたるまで」の趣旨で、「いっさいの〜について」という意味にまで拡張される。プラトンは、この前置詞を使って、普遍的なものの特殊なものに対する関係を述べることにより、普遍的なものが、その下にある、いっさいの特殊な事例について成り立つことを言おうとするわけである。プラトン的な概念の形成は、このような用語法の点でも、ソクラテスの対話を改修していることが注目される。[p.29-30]

イデアの名詞的表現と形容詞的表現

 これら[イデア論が最初に導入される『パイドンisbn:4003360222 の 65D-E、74A-C]ふたつの箇所から、イデア論にはもともと、二つの領域があり、一方は倫理的・審美的な、他方は論理的・数学的な領域であったことがわかる。前者には、正義や善や美のイデアが属し、後者には、同じもの や 大きさ のイデアが属している。ここで、われわれは、ある言語上の相違に気づくべきであり、

そのことは、いずれ体系的に説明するはずだが、要するに、それは次のことである。

ドイツ語でイデア論を述べようとすれば、たいていは、美 や 正義 や 同一性 や 大きさ について語ることになり、こうしてつまり、名詞が多用されるであろう。これらの名詞の意味をより明確にするためには、美のイデア、正義のイデア、同一性のイデア、大きさのイデア という表現も慣用される。プラトンはしかし、イデアを語るのに、たいていは形容詞の名詞形を使い、ほとんど常に「美なるものそのもの」、「善なるものそのもの」、「同じものそのもの」で通している。シュライエルマッヘルは、[ギリシャ語からの翻訳に際して]これらの訳語を多用するが、たしかにプラトン本来の名詞によって、イデアを表現することはまれなのである。[p.54-55]

見えるものと見えないもの

[p.62-64]

ousia [家畜のような所有物]

[p.67]

垢や埃のイデア
プラトンイデア論をもっとも詳細に検討しているのは『パルメニデスisbn:4000904140 ですよ。この著作は「形而上学」の端緒だといえますよ。

パルメニデス』からの引用。[130A-E]

  • ではソクラテスよ、君はたとえば、毛や垢や埃などのように、まるでおかしな、とるにもたらぬほどつまらぬものについても迷うのかね。これらにもそれぞれ、われわれが手に取るものとはやはり違った、特別なイデアがあると主張すべきなのか、それともそうではないのだろうか、と。
  • けっしてそうではなく──とソクラテスは言う。むしろそれらは見るとおりのものに過ぎず、それらにまでイデアがあると考えることは、たしかに、まったく奇妙にすぎるだろう。もっとも、事情はすべてのものについて同じなのではないのか、と ときに自信がなくなることもある。だから、私はこのあたりまでくると、うっかり根拠の無い妄想におぼれこみそうな気がして、逃げ出すわけだ。こうして、さきにもわれわれが、たしかにそのイデアはあると認めた、かの諸対象に戻り、それらについて考えることだけで満足する。
  • ソクラテスよ、君はやはりまだ若い。

「君はまだ若い」メソッド。いつか使う。


■著作別イデア導入ガイド: マルティンまとめ [p.76]

  • パイドン』:
    • 倫理的・審美的なもの。論理的・数学的なもの
  • パルメニデス
    • 倫理的・審美的なもの: 美、正義、善
    • 論理的・数学的なもの: 類似性、一と多
    • 生物的なもの: 人間、火、水
ギリシャ人にとって、火とか水は「生物のようななにか」だったんでー。
choris [分けて]

[p.78-81]

アリストテレス

アリストテレスの存在神論

──とハイデガーが)いうのは こいつ↓のことですよ。>誰か

 存在としての存在 の学という、形而上学のこの規定は、たしかに、アリストテレスの独自な思索によって、存在の諸局面が、次のように階層化されることからの成果であったと言える。

たとえば、太陽について考えてみると、
  • その完全な実在性の中には、歳月の推移や人間の生活との密接な連関が含まれている。太陽は光と熱の源であり、春をもたらすのも、すべての生物を成長させ、繁栄させるのも太陽である。
  • だが、このような実在性を捨象して、太陽の中に純粋な運動現象だけを観察し、太陽をたんなる天文学の対象にすることもできる。[...]
  • このような抽象をさらにもう一段階徹底することができる。太陽をたんに、動くものや、幾何学的な形象によって規定されるもの、あるいはまた、数えうるものであるとみなすだけでなく、むしろこの最後の抽象は、太陽がまさに存在するということだけを問題にするのである。

この最後の抽象によって、実はいっさいのものが、たんに存在するものとして考察されることになり、こうして、そもそも、存在としての存在とは何を意味するのかという、アリストテレス形而上学における本来の課題が成立するわけである。

 同時にしかし、アリストテレスは、形而上学最高の存在 の学であるとも規定しているが、課題の受け取り方のこうした 二重性 の根底には、ギリシャ人にとってかなり一般的であった、次のような考え方が働いている。

わかりやすく説明してみると、たとえば、ヴァイオリンの演奏とはなんであるのかを知るためには、偉大な芸術家の最良の演奏に触れる必要があるとするのがその考え方である。初心者の最初のレッスンも、ある意味では、すでに演奏であると言えなくもないが、他方それは、たしかに、まったく演奏になっていないとも言える。われわれにも了解できる、こうしたギリシャ人の考え方によれば、いかなる分野についてもそこでの最良のものだけが基準になりうるのである。

この考え方を、存在としての存在 への問いに適用するなら、そこに問われているのは、けっして任意の存在ではなくて、むしろ、まさに 最高の存在 であると考えるべきであり、その限り、存在としての存在の学は、おのずから、最高の存在についての学であることになる。形而上学は、その二千年にわたる全過程を通じて、常に同時に神学でありキリスト教の世界では、とくに自然神学と呼ばれるものであったが、こうした二重性の起源は、あきらかにアリストテレス自身のうちに用意されている。

  • 先験哲学としての形而上学が、存在としての存在の学から由来したように、
  • 自然神学としてのそれの源流は、たしかに、最高の存在についての学であったと言える。

もちろん、しだいに重点は、前者を課題とすることにおかれるようになり、われわれにはとにかく、形而上学がただちに一般形而上学を意味する訳で、当然それは、存在としての存在の学、つまりは、先験哲学であるよりほかはない。その際、カントの意味での先験哲学が、この課題の確定に正当に寄与していることは認めるにしても、一般形而上学を先験哲学であると解するについては、けっしてそれを、カントの意味だけに制限するわけではない。[p.167-170]

形而上学アポリア

 かつて、どの時代にも問われていたし、今もやはり問われており、将来も常に問われるであろうが、どの時代にもけっして完全には解けないであろう問題は、まさにこの、存在とは何か という問いであり、さらに言えば、ウーシアとは何か との問いである。[Met.1028b2-4(7-1)]

[...]

 アリストテレスにおける形而上学の方法に関しては、上掲の箇所に、結局はそれが、解決不可能な問いであるように語られていることが、特に注目されなければなるまい。存在とは何か、という形而上学の究極の問いに対して、確定的な答えがほとんど期待できないとする、ここでの見方は、プラトンがすでに『ソフィステス』において述べているところでもある。われわれは、だれもが「ある」という語を使っており、そのことで何を言おうとするのかを、十分よく知っているはずだと思うのに、実際にその意味を語ろうとすると、ただちに、はたと困惑してしまう。アポリアと呼ばれる、形而上学のこうした特質に、アリストテレスもやはり固執していることがわかるのである。[p.165-170]