先方ではすでに総括宣言みたいななにかが出ておりますが(微苦笑)。
蒼龍先生:このブログでハイデガーについて書くとろくなことがない
http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20081225/p1
「なぜ何事も無いのでは無く、むしろ碌でも無いことが有るのか」 とかについて考えてみたりするといいんじゃないですかね(誰かが
まぁそれはそれといたしまして。このエントリでは、私の前エントリに対して コメント欄にて蒼龍先生にいただいたコメントのいくつかに お応えしますよ。
- 蒼龍先生:ハイデガーにおける論理学と形而上学
http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20081115/p1 - 酒井 : ハイデガーにおける論理学と形而上学?
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20081221#p1
【コメント2】deepbluedragon 2008/12/22 16:24
contractio さんの指摘には正しいところ(ハイデガーは科学と技術の差異を無視しているなんて確かにありえない)もありますが、コメントでの反応を見るとどうもどう弁明しても泥沼そうなのでやめてきます。誤りの指摘をするのは自由ですが(不毛そうなので)多分もう応答しません。読者で勝手に判断してください。
ハイデガーには反基礎付け主義の側面もあるんじゃないのか と思いますが、まるでハイデガーが新しい形而上学(新しく創案された「存在論的カテゴリー」)を作り上げるのが目的であったかのような意見にはついていけません。私が言及してもない基礎存在論の話を大事そうにしながらコメントでは基礎作業にすぎないと話をずらす し、ハイデガーを文脈主義者であるかのように解釈する(一般的とは思えない解釈だ)とか、時間に関する話の側面は無視する とか、もうどうでもいいです。ハイデガーをエスノメソドロジストにしたいなら勝手にそうしてください。
【コメント3】deepbluedragon 2008/12/23 02:42
何度か見直してやっと気づいたけど、「12.(現前の)形而上学としての否定神学」の部分って別に私への反論になってないじゃん。「カテゴリー論と否定神学は、同じ穴の狢である」ことは私の議論でも述べられていることだし。反論だと思い込んで読んでいたからなかなか気づかなかった。先入見って恐ろしい!カテゴリー論と否定神学が同じ穴の狢であるから最終的に形而上学批判は不毛に陥る っていってるんじゃないのか自分って。そう思って読むと、『「否定神学」的主張を「形而上学」の名の下に行う』ってのも私が論じている話と同じだし。前半は否定神学という呼称の問題以外は別に反論になっていないとやっと分かった。
こっちのいいたいこともさっぱり伝わっていなかったんじゃん、おいおい♪
これらに対し、3(+1)つのエントリでお応えします:
- 2-1 否定神学について [←いまここ]
- 2-2 ハイデガーの形而上学期について
- 2-3 ドレイファス-門脇解釈について
その前に、まず一言。
蒼龍先生は、「contractio さんの指摘には正しいところもある」
とか言ってくれちゃってるわりには、「どの点は酒井が正しい(=蒼龍先生は間違っている)と考えたのか」についてはちっとも書いてくれてません*。 なので、次の言葉は蒼龍先生に そっくりそのままお返ししますね♪:
あなたがどこまで理解しているのか分からないので こちらとしてもどうにも対処しにくいです
「ハイデガーは科学と技術の差異を無視しているなんて [...] ありえない」などという強い主張はしてませんよ。
「ハイデガーのどういう主張をターゲットにして行われているのかわからない」ので
「検討することができない」(から、
「教示を願いたい」)と書いたのです。
2-1 否定神学について
私は、前エントリにおいて、蒼龍先生のエントリから二つのトピックを取り出して話題にしてみたわけですが:
- [P] ハイデガーの形而上学批判は、いかなるカテゴリーをも越えようとするものである(が、それは無茶だ)。
- [N] ハイデガーの形而上学批判は、「いかなる肯定的言述をも逃れる対象として神を語る考え方」としての否定神学の存在を無視している。
(次エントリのための準備も兼ねて)もうちょっと詳しく、それぞれを、私がどのように理解したのか敷衍してみると:
形而上学を矮小化した上で批判しているのだから、その議論自体が否定神学的と言う意味で形而上学に陥っていたとしてもおかしくない(だから形而上学批判そのものが形而上学なのは矛盾じゃない!)。まぁ勢いで書いちゃったのかなー、という感なきにしもあらず、ではありますが。
まず、[P] シリーズのほうについて考えると、「可能性」だけでいえば、[P2]、[P3]、[P4] について、それぞれ反論を企てることができるでしょう。その上で、[N] シリーズのほうについて見ると、[P] と [N] は、[N3] と [P2]、[N5] と [P4] を共有していることがわかります。だから、[P2] か [P4] のどちらか一つ を否定してやれば、[P] [N] の双方が 成り立たないことが示せます。
だから、前エントリの主要主張は、[P4] に対して反論した 「2. 「ハイデガーの形而上学」について」のほうにあったわけですが。
まぁそれはそれとして。
前エントリの「1. 否定神学について」は、「否定神学」という言葉をキャッチフレーズででもあるかのように気軽に振り回し、たかだか「カテゴリーを超える」
だの「いかなる肯定的言述をも逃れる」
(だの「究極の実体は概念作用を持って把捉することができない」
だの)というくらいのことを問題にするのにこの言葉を引き合いに出す蒼龍先生をみてびっくりしたので書いただけのこと。だって、問われている問題を、「「存在する」というのは はたして類-種の論理に収まる述語なのだろうか」
という形に書き直すなら、これ、ハイデガー自身が『存在と時間』の冒頭で紹介している(!) 古典的なトピックではないですか。
自分が書いてることの含意が分かってるのかなぁ? ...と首をひねりすぎて顎が天井を向きそうになりましたよ私は。
このエントリはここまで。