依存生起(supervenience)

車中にて再訪。

入門・医療倫理 (2)

入門・医療倫理 (2)


■第4章「実在論・認知主義」注25

Smith, 1994*, p.21.〔30頁**.〕 「依存生起(Supervenience)」とは、Aという性質とBという性質との間に次のような関係が生じている場合に、両者の関係をあらわす語である。

  • 性質Aに生じた変化は 性質Bに生じた変化が存在することなしには存在し得ないが、しかし
  • 性質Bの変化は 性質Aの変化がなくても存在しえる。
    この場合、性質Aは 性質Bに 依存生起する、と言う。

二つのものがまったく同じ自然的性質Bをもつならば、その場合、両者はまったく同じ道徳的性質Aをもつ。[...] (p.96)


■第5章「反実在論・非認知主義」

 ヘアによると*、「〜すべきだ」という道徳判断は [...] 「〜せよ」という命令を含んでいる点で 命令文と共通している。道徳判断は、それに加えて 普遍化可能性 という道徳語に特有の特徴を持つとされる。

これは、道徳判断に関して、等しい状況においては等しい判断を下すことが要求されるということである。たとえば、ある状況Aにおいて一郎が次郎に「人の物を盗むべきではない」と言うならば、状況Aと重要な点でよく似た状況Bにおいて、一郎が次郎に「人の物を盗むべきだ」と言うと、一郎は矛盾を犯すことになる。

ヘアによれば、この特徴は「ドアを閉めろ」のような普通の命令にはないとされ、ふつうの命令文と道徳判断とを区別するメルクマール(指標)になる。
 ヘアは この道徳判断が持つ普遍化可能性という特徴に関連して、事実判断と価値判断の間になりたつ 依存生起(supervenience)という関係について論じている。ここでいう 依存生起 とは、

  • ある状況においてなされる道徳判断が、その状況が持つ一定の 記述可能な特徴 に依存していること

を意味する。

たとえば、わたしが「一郎は善い人だ」と述べ、あなたが「なぜそう思うのか」と尋ねたとすると、わたしは一郎の義理堅さや気前の良さといった特徴を挙げることができる。これは「一郎は善い人だ」という道徳判断が、一郎が持つ一定の特徴に依存していること(依存生起)を示すと同時に、もし次郎も同様の特徴を持つとすれば、わたしは次郎についても善い人だと判断することが論理的に要求されるということである(普遍化可能性)。

ティーブンソンは記述的意味と情動的意味の関係を十分に説明しなかったが、ヘアは記述的意味と指令的意味の間に一定の依存関係があることを指摘することによって、非認知主義の立場から 道徳の 客観性 をうまく説明したと言える。(p.104-105)

11) なお、実在論者も依存生起という言葉を用いるが(本書第4章参照)、ヘアのような非認知主義者が依存生起という言葉を使う場合は、道徳判断は自然的性質に一定の仕方で依存するということを意味するだけであり、自然的性質に依存して生じるような道徳的性質の 存在 を主張しているわけではない。


■第6章「メタ倫理学の現在」

II 自然主義実在論の現在

1. ブリンクの認知主義的自然主義
(1) 非還元主義的自然主義

 現在の自然主義実在論が まず何より乗り越えなければならないのは、従来の自然主義的な倫理理論に対してムアが差し向けた「自然主義的誤謬」と呼ばれる批判である。前々章で見たとおり、ムアは、道徳的性質を 自然的性質によって定義することは本来的に不可能であるにもかかわらず、従来の倫理理論のほとんどは そのような謝った基盤の上に構築されているとして、自然主義を批判した。だが、ムアがこの自然主義的誤謬と言う事で問題にしていたのはもっぱら道徳的価値の 定義 の問題にすぎず、道徳的価値が定義以外の何らかの関係によって自然的性質と結びつけられると言う可能性を、ムアはほとんど考慮していない。そこで、現在の自然主義者たちは、道徳的性質と自然的性質との定義的な関係という意味論的な考察に限定されたムアの思考の枠組みを突破するところから、自然主義の再興の道を切り開こうとする。
 このような試みを遂行するに際して現在の自然主義者たちがたよりとするのは、すでに前々章で示唆された、依存生起(supervenience)という関係である。たとえば、ブリンクはこの点に関して次のように述べている。

自然主義者が主張しているのは、道徳的性質は自然的性質によって構成されているがゆえに、道徳的性質は自然的性質に 依存生起 するということである。

つまり、ブリンクに従えば、道徳的価値がこの自然的な世界の中に実在するという自然主義者の主張を確立するためには、

  • 道徳的性質が ある特定の自然的性質の出現に依存して生じる(依存生起する)

ことが示されればよいのであり、ムアが想定する自然主義のような、

  • 道徳的性質が自然的な性質や事実に 還元可能 である

という発想をとるには及ばない。もし本当に道徳的性質が自然的な事実にや性質に依存生起するkとおが示されるのであれば、たとえ前者は後者に還元不可能であるとしてもなお 両者はある種の必然的な関係によって結びつけられると主張することができるので、道徳的性質の実在を自然的な世界の状態と結びつけて説明する可能性が開かれるのである。

 しかし、マッキーの「特異性に基づく議論」の中では、
(p.125-126)



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