涜書:檜垣立哉『フーコー講義』/モース研究会『マルセル・モースの世界』

フーコー講義 (河出ブックス)

フーコー講義 (河出ブックス)

マルセル・モースの世界 (平凡社新書)

マルセル・モースの世界 (平凡社新書)

  • 序 章 フーコーを読むということ
  • 第一講義 フーコーというひと/フーコーの方法論
  • 第二講義 「人間」の解剖学──『臨床医学の誕生』と『狂気の歴史』
  • 第三講義 二重体としての『人間』
  • 第四講義 規律化される人間──『監獄の誕生』
  • 第五講義 「生権力」について──『性の歴史 I』
  • 第六講義 「統治性」というプログラム──七〇年代後期の『講義録』
  • 第七講義 新たな自己の実践──八〇年代の『講義録』から『性の歴史 II』 『性の歴史 III』へ
  • 第八講義 フーコー以降のフーコー
第 I 部 快活な社会主義人類学者の肖像
第 II 部 起点としてのモース
  • 第1章 フィールド「レヴィ=ストロースからさかのぼる──自然・都市・協同組合」渡辺公三
  • 第2章 文献学「『供犠論』とインド学──もう一人の叔父シルヴィアン・レヴィ」高島 淳
  • 第3章 呪 術「一八九九年のモース──『供犠論』と「社会主義的行動」」溝口大輔
  • 第4章 宗 教「コトバとモノ──モース宗教社会学の基本要素」関 一敏
  • 第5章 政 治「未完のナシオン論──モースと〈生〉」真島一郎
  • 第6章 経 済「交換、所有、生産──『贈与論』と同時代の経済思想」佐久間 寛
  • 第7章 芸 術「全体的な芸術は社会事象である──民族音楽者シェフネル」昼間 賢
  • モース関連名鑑
  • モース関連略年表

『モースの世界』第二部第3章 溝口論文は、供犠論の成立をめぐるデュルケーム - モース書簡を跡づけたもの。デュルケームに対するモース他からの影響は、デュルケームの読解にとっても見逃せない事柄であろう。
第二部第6章 佐久間論文は、『贈与論』の簡にして要を得た紹介とともに、それとモース社会主義思想との本質的な関わりを述べたもの。内容も素敵だがプロットも素晴らしい。
この二本は勉強になった。



檜垣講義。

言語を強く問題視し、正常化とそこからの排除を論じる…だけでは、… 分類とそれに関わる知をしか把捉できない。[p.37]

なぜですか。

 生政治において、人口として把捉される人間は、もはや「個人」としての人間ではない。規律権力や生権力は、個人としての主体化を、力動的に扱うものであった。ところが、生政治から統治性の議論では、

人口的なマクロ性において捉えられる集団性、その延長としての経済性や流通の議論、さらには風土的環境的な主題が際だってくる。これらは人間にとって、主体の深部生命的無意識性うごめいている、その姿を露呈させるものであるといえる。そして「統治」とは、そうした「生命としての自然性」にもとづいた、それに対する管理を標的にすることなのである。[p.41]

わからぬ。まるでわからぬ。


『モースの世界』。

これはひどい。みんなPDFじゃないか。

確かに、自己自身の速度を超えて対象へと超出してゆく好奇心の運動の状態そのものを、もっともすぐれた意味での民族誌的関心のバネと呼ぶことはできるかもしれない。しかしそうであるならそれは、「選択する主体」の放棄からくる「非体系性」などと呼べるものではなく、逆に「主体」に支えられた「体系」の外にあってその狭さと限界を照らし出し、道の細部に光を当てる、多方向に散乱するある種の博物的な洞察力ともいうべきものではないか。[p.41]

わからぬ。まるでわからぬ。


p.75

フランスの社会主義の歴史に足跡を残した人々を紹介する伝記辞典には、人類学者・社会学者のモースとはやや色彩を異にする、大げさに言えば異貌のモースが示されている。

モースが踏みとどまった「都市」を出て、レヴィ=ストロースサンパウロからブラジルの辺境の野生の自然のさなかに生きる人々に向かったとき、おそらく人類学はモース的な「よりよき人為主義」の探求ではない何かを志向したのではないだろうか。[p.87]

どこのなにがどうするとそんな結論が導けるの…



文献

第二部 第三章
第二部 第六章