人文学報 フランス文学, 517(15),1-2 (2021-03-23)
https://ci.nii.ac.jp/naid/120007030495
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特集=ジャン・リュック・ナンシーにおける芸術の問い
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1. 概要
1964年の講義「歴史と真理」について。
history of truth を「歴史という真理」って訳す必要ある???
これ、常識的に考えて「時間を追って」だと思うんだけど、そうではなくて、何か非常識な主張がされているのだろうか。
3. 歴史と真理
「縮減」なる表現が頻用されているが、原語はなんなのだろうか。
- 62「デリダが講義で詳述したのも、まさにこうした歴史、つまり哲学的な伝統の内部で変動する歴史と真理の関係を輪郭づけている 真理という歴史 だった。」
やっぱりこれ、「真理の歴史」でよいのでは???
4. 歴史を書く I
知的に洗練されていない感じがしてしまいますね。
5. 歴史を書く II
- 70
- テクストの外にはなにも存在しない
- 歴史から逃れるものはなにもない
ありがとうございました。
- 72 これはちょっとなに言ってるかわからないですね。
「『グラマトロジーについて』と後年のテクストのなかでデリダは、確固とした全体を越えでる運動ではなく、シニフィアンのシステムにおける戯れを強調した。したがって、概念の動揺は、概念の変化によっては歴史的に表出されることはない。結局のところ、彼にとって形而上学の歴史は、エクリチュールの抑圧が一貫して存続することを示している。こうした観点からすれば、脱構築的な読解が明らかにしたような、ある哲学体系の内部で働く数々の闘争的な史脈は、必ずしも 歴史学的な文書で演じられる必要はない。」
「歴史学的文書」ってなんのこと? 歴史学研究者が使う資料のこと? それとも歴史学研究者が産出する文書(〜研究論文)のこと? さらに他のなにか??
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- しかもここに、こんなヤバい文が続くんですよ。
「テクストを読み直し、語られておらず、暗示されているものを引きだし、歴史学がとらなかった道のりの可能性を明らかにしたのは歴史学者ではなく、哲学者や文学の研究者だった。こうした脱構築的な企ての変遷は、哲学の歴史的説明そのものを疑う。いまや思想史における語りは、いかなる哲学体系も完全には安定していないということを認識するというより、概念的な展開の固定した道のりで生じる動揺を強いる試みであることになるだろう。」
「紀要にしか書けない!」って感じの主張ですね。
「概念的な展開の固定した道のりで生じる動揺を強いる試み」も何言ってるのかわからないね。
- 73 こちらも理解が難しい。
「したがって、脱構築が歴史家を魅了し恐れさせるのは、歴史の力から免れている(過去の)真理を求めて、歴史を書くために歴史学者が自分自身の法を破らざるをえない仕方を、脱構築が診断するからである。」
- 73 その次の一文は、まぁありうることかとは思いますが。
「歴史学者が脱構築的な歴史批判に敏感なのは、脱構築が不気味なほどに歴史学と近しいからなのだ。」
哲学のひと、哲学史の話で歴史についての議論を代用しようとするので、「哲学と歴史学」についての議論は他の人が担当するしかないですねぇ。
「哲学と歴史学」の関係について論じたいなら、「哲学の歴史」と「歴史学の歴史」を比較しないと駄目ですよね。