友達の作り方

ってなんだろう。というコメントがついていたことに、検索エンジン経由で気がついたのだが、友達の作り方ってなんだろう。
もはや覚えていない。

あとで引用しようと思ったところをみてみよう。

哲学と自然の鏡

哲学と自然の鏡

相互反映性/オートポイエーシス/言説の編成

葵さん、ご笑覧&コメントありがとうございます。

しかしここで謂う「コンテクスト(=場面)」とは

〈それによって「言表」(の意味)が確定される〉とされる、ふつうの意味のそれではなくて

  • 或る言表が、そこにおいて生じる 場field/domain である

というだけでなく、同時に、

  • その言表自体が、その 場field/domain をつくりあげる一つの 指し手move となっている

という事情*を指すために使われている。

EM者は、これを「相互反映性reflexivity」といいます♪
(特殊)社会システム論では*4、これを「オト(・∀・)ポイエンチす!」といいます♪

http://d.hatena.ne.jp/contractio/20041112#1100196820

つまり、コンテクスト(=場面)とは、ある言表が位置を占め何かを意味する場であると同時に、その言表自体がその場を作り出す一つの契機であるということを意味しており、──つまりコンテクスト(=場面)は自己言及的閉鎖性と循環性によって理解できる──オートポイエーシスという概念で置き換えられる、ということでしょうか。

    • tamadareaoi:20050824



引用していただいた箇所で「それぞれの概念が相互にどう対応しているか」といえば:

エスノメソドロジールーマンフーコー(@『知の考古学』)
指し手、実践要素(=作動)エノンセ
場面ネットワーク言説
相互反映性社会システムの
オートポイエーシス
(言説の)編成

‥‥でした。


これらは

「似ている」のでも「機能的に等価」なのでもなくて、私の考えでは、
その形式的同型性を確認することによって、そこから生じているアプローチの多様性*に 驚 く 事 が で き る ような仕方で

「同型的」であると思います。

* なお、「機能的に等価」という語は──もしそれをつかうのなら──この「多様性」のほうに対して、がよいようにおもいます。
これは、〈違うものたち〉のあいだの関係について使ってこそ いみをもつ言葉なので。


ちなみに、念のため微妙に修正しておくと、「〈場面〉が〈DQA〉で置き換えられる」のではありません。
比較すると楽しいのは──私が思うには──、〈場面/指し手〉の構成的関係[相互反映性]-と-〈ネットワーク/要素〉の構成的関係[=DQA、です。


ところでここで私は、フーコーのいう「場domain」とEMでいう「場面setting」を混用/混同してしまってますね。(いま読むと。)
てことは、ここには、──フーコーのテクストに即して──もうちょっと整理しないといけないことがありそうです。それはまた、テクストが手元にあるときに、考えてみましょう。

さしあたり、テクストを見なくてもわかることを書いておけば。 setting は domain の 上位概念になっているのだと思います。

DQA:その2

  • ルーマンの謂ういみでの)DQA(EMで謂う)リフレクシヴィティとの関係については、この↓著作におけるリフレクシヴィティの解説が 直接に 参考になります:

相互行為分析という視点 認識と文化 (13)

相互行為分析という視点 認識と文化 (13)

そこで著者は、「作動的閉鎖」と ほとんど直接に重ねあわせる事ができるような仕方で 「リフレクシヴィティ」について論じています。


ちなみにgoogle:フーコー+ルーマンググると見事にハバーマス先生絡みのネタしか引っかかりませんな。

  • ハーバーマスは主体哲学の批判において近代哲学全体を総括し、認識主体を核とする意識哲学(反省哲学)から労働主体を核とする実践哲学への展開を踏まえて、歴史哲学的に構成されたマクロな主体の概念を批判し、その帰結としてフーコーの権力概念やルーマンのシステム概念を批判した(‥)
    • フーコーの権力論】
      • 理性批判を「人間諸科学」への批判をとおして極限にまで進める
      • 近代的理性(思惟する主体)の「知への意志」は「権力への意志」そのものにほかならないとする
      • 人間中心主義の思惟(主体中心的理性)を権力のテクノロジーに還元することで理性批判を展開
      • フーコーの理性批判はルーマンの機能主義的理性の影にとらえられ、おのずから批判性を喪失していく
    • ルーマンのシステム論】
      • ルーマンは認識主体と世界(認識対象の総体)との関係を「システムと環境」の関係に置き換え、認識する主体の自己関係を、環境(意味地平)の複雑性を反省して「意味」を加工する(複雑性を縮減する)システムの作用に移し替える
      • しかし、システムの自己関係からは総合の働きをする自己意識の同一性アイデンティティが排除されており、そこでは複数のシステムがそれぞれに機能分化を続け、ただ複雑性を増大させていくだけであった
  • ハーバーマスは「近代の哲学的ディスクルスフーコーにおける全面的な理性批判の袋小路と、新保守主義における機能的理性の全面的な肯定)」のたどった道を原点にまでさかのぼりそこにおいて理性のパラダイム自体を転換し、主体哲学を脱出する別の道をたどろうとした
  • つまり、フーコールーマンのパラドキシカルな理論的照合関係は主体中心的理性のアポリアにとらわれた近代の社会的実践のパラドックスを反映するものであり、そうした実践の原理となる「労働」の限界にかかわる問題とした

http://up.t.u-tokyo.ac.jp/summerschool/2Habermas.html

いやぁ...。あっはっはっは。反論不可能ですよぅ。

「権力論」と「システム論」て。水準の違うもんを一緒に並べて論じてる時点で もうすでに踏み外しちゃってるわけで。


【追記】
こちらに引用文をアップしました:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060131/1138642175

Google talk beta



Jabber について:

Jabberは仕様が公開され、オープンに開発が進められているインスタントメッセージプロトコルだ。インスタントメッセージ(以下「IM」)というと何やら小難しそうだが、簡単に言ってしまえばチャット、つまりリアルタイムでの文字データのやり取りを行うシステムである。単純なチャット機能の他にも、自分や相手の状態−−オンラインかオフラインか、離席中か仕事中かなど??を簡単に認識する機能、あるいはSSLによってメッセージを暗号化して送受信する機能、会議室を作成し、多人数でチャットする機能なども用意されている。

吉澤夏子情報

こぴぺですみません。

いま発売中の週刊読書人2005年8月26日号に、吉澤夏子さんがルーマンの『情熱としての愛』についての書評を書いています。見出しは『愛に対する認識を深める 立ち位置の自明性を徹底的に相対化』です。
ルーマンが愛というとき、それは個人の心の中にある気持ちや感情を指すのではない。愛とは、ありそうもない親密な関係をそれにもかかわらず首尾よく実現させる、という役割を果たすコードとして位置づけられる。ルーマンはそれを「シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディア」とよぶ。それはコミュニケーションとの関連で人間の個人性を捉え、それを育成し促進するという特定の課題を担うものだ。この乾いた愛の定義に、本書を読み解く鍵があるといってもよい。》だそうです。