ヒューム『人間知性研究』第12章「アカデミー的あるいは懐疑的哲学について」

人間知性研究―付・人間本性論摘要

人間知性研究―付・人間本性論摘要


「観念の間の関係」について:

[131] 抽象的な科学、あるいは論証の、唯一の対象は量と数であると私には思われる。また、このいっそう完全な種類の知識をその限界を越えるまで拡張しようというすべての試みは、単なる詭弁であり幻想にすぎないと、そのようにも思われる。量と数の組成部分は相互にまったく類似しているので、それらの関係は錯綜しこみいったものとなる。かくて、多様な媒介によって、それら量や数のさまざまな現われ方を通じた等性や不等性を跡づけることほど、有用であると同時に興味深くもあるものは何もありえない。けれども、量と数以外の他のすべての観念は明らかに互いに判明に異なるので、われわれは、最大限の吟味をもってしても、それらの相違を観察する以上には、そして、明白な反省によって、一方は他方と同じでないと断言すること以上には、前に進むことができない。あるいは、もしこうした決定にさえ何か困難があるとするなら、それはまったくもって言葉の不確定な意味に起因するのであり、そうした不確定性はもっと正当な定義を施すことによって矯正されるだろう。直角三角形の斜辺の平方は他の二辺の平方の和に等しい、ということは、たとえ語句をかなり厳密に定義したとしても、推論や研究の連なりなしには知られえない。けれども、所有権が存在しないところでは、いかなる不正義も存在しえない、という命題について確信するためには、語句を定義し、不正義とは所有権の侵害のことであると説明しさえすればよい。もっとも実際は、この命題はかなり不完全な定義にすぎない。このことは三段論法的と自称するすべての推論の場合でも同様であり、こうした事情は、量と数の科学を除く、他のすべての学問分野にも見いだされるであろう。そして、私が思うに、この量と数の科学こそ、知識と論証の唯一の固有な対象であると断言して差し支えないものであろう。[訳p.152]

「事実の問題」について:

[132] 人間のなす[「抽象的な科学、あるいは論証」以外の、]他のすべての研究は単に事実の問題と存在にかかわるにすぎない。それらが論証されえないことは明白である。あるものはすべてないこともできる。事実のいかなる否定も矛盾を含むことはありえない。いかなる存在者の非存在も、例外なく、その存在と同様に明晰かつ判明な観念である。それがないと断定する命題は、いかに偽であろうとも、それがあると断定する命題に劣らず想念可能であり、理解可能である。しかるに、科学と固有に称せられる領域に関しては、事情は異なる。真でないすべての命題は、そこでは混乱しており理解不可能である。64の立方根は10の半分に等しい、というのは偽の命題であり、決して判明に想念されえない。けれども、カエサル、あるいは天使ガブリエル、またはどのような存在者であれ、それは決して存在しなかった、というのは偽の命題かもしれないが、それでもやはり完全に想念可能であり、いかなる矛盾も含意しないのである。
 それゆえ、なんらかの存在者の存在は原因からの、あるいは結果からの議論によってのみ証明されうる。そしてそうした議論は全面的に経験に基づくのである。もしわれわれがア・プリオリに推論したなら、どんなものであれ、どんなものをも産み出すことができるように思われよう。小石の落下は、よくは知らぬが多分、陽光を絶やすかもしれないし、人間の希望は惑星の軌道を制御するかもしれない。原因と結果の本性と結びつきについて知らせ、一方の対象の存在から他方の対象の存在を推論することを可能ならしめるのは、ただ経験のみである。これこそが、人間の知識の大部分を形成し、そして人間のすべての行為と行動の源泉をなす、蓋然的推論の基礎なのである。
 蓋然的推論は特殊的事実か一般的事実かのいずれかに関する。生活上のすべての熟慮は前者にかかわる。歴史学、年代学、地理学、そして天文学についての研究もまた同様である。
 一般的事実を扱う科学は、政治学、自然哲学、医学、化学などであり、そこでは、あらゆる種類の対象の性質や、そうした対象の原因と結果が探求される。
 神学あるいは有神論は、神性の存在と霊魂の不死性を証明するものであり、それはある部分では特殊的事実に関する推論、他の部分では一般的事実に関する推論、によって構成されている。それは、経験によって支持されるものである限り、理性のうちに基礎をもつ。けれども、その最良かつ最も堅固な基礎は信仰と神の啓示である。
 道徳および批評は、知性の固有な対象というよりもむしろ趣味と心持ちの対象である。美は、道徳的なものであれ自然的なものであれ、知覚されるというよりも感じられるというほうが適切である。あるいは、もしわれわれが美について推論し、美の基準を固定しようと努力するとしたなら、われわれは、新しい事実、すなわち人類の一般的趣味、または推論や研究の対象となりうるようななんらかの事実、を考慮しているのである。
[訳p.152]