序言

 日常的な言語使用における言葉を用い、伝統的な倫理的な考え方での概念を用いるように、という忠告が、そもそも社会学に対してなされるべきなのかどうか。これは真剣に考えるに値する問題である。そのようにして道徳的な概念を社会学の概念へと改装することには、さしあたっては一長一短があるように思われるが、しかし〔やり方次第で〕長所と短所は大きく異なりうる。

  • 〔道徳の概念を社会学の概念へと改装していく場合に〕もし、因果的な説明をつうじて〔道徳の概念を〕批判的に解体したり、思わぬ仕方で異化したり、ないしイデオロギー的な暴露を行うという次元のままであるならば、あるいはまた〔道徳の概念の〕隠れた副次的な目的を説明したりという次元にとどまっているならば、短所のほうが目立ってくる。
    • その場合には、用いられる言葉が同じだということは、むしろそれらを逆手にとって、その言葉の旧来の〔日常的・倫理的な〕意味の地平の信用を失墜させるために誤用される。
    • そうすることは、こんにちの思想状況ではたやすいことである。いや、あまりにもたやすいので、道徳の概念を社会学の概念へと改装していったところで、社会学はほとんど何も学び取ることもできず、そうした改装の課題にそくして社会学固有の理論を打ち建てることもできまい
  • それに対して、社会学が右のような次元を離れて、社会学の思想的な立場を、積極的に、つまり社会学に固有の理論をとおして、確保することに成功するならば、
    • そしてその理論のほうから、社会生活での日常的な了解と対話し、倫理をつうじた社会生活の形成と対話することができるようになれば、
    • 〔日常的な倫理での考え方と社会学との〕言語の共通性が持つ長所は、短所を補ってあまりあるものとなろう。

信頼という概念に対して加える以下の考察は、まさにそのような意味で、社会学の理論の構築に寄与することを願っている。