ブルデュー&ヴァカン『リフレクシヴ・ソシオロジー』

リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待―ブルデュー、社会学を語る (Bourdieu library)

リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待―ブルデュー、社会学を語る (Bourdieu library)

エスノメソドロジーに対するよくある批判の症例。

第II部 リフレクシヴ・ソシオロジーの目的

ビデオに「権力」は映らないよ。

p.107-108。符番は引用者による。

【1】 しかし、私がガーフィンケルエスノメソドロジーから結局のところたもとを分かってしまいたい理由の一つもここにあります。フッサールとシュッツが示したように、われわれにとって社会についての一次経験が存在するという点には私も賛成です。[...] こうした分析は記述としてみれば卓越しているのですが,記述のレベルを超えて我々は進まなければなりませんし、このドクサ的経験の可能性の条件について問いを立てる必要があります。[...]

【2】 ついでにエスノメソドロジーの研究者たちの実証主義というものがあることを つけ加えておかなければなりませんね。彼らは統計学実証主義に反対してあらそう中で、敵のもっている前提のいくつかを受け入れているのです。つまりデータに対抗するデータ──統計に対抗するヴィデオの記録──をです(...)。記録だけで満足すれば、現実の枠付けという問題を看過してしまい、その結果それ自身を解釈する原理を必ずしも含んでいないできあいの具体性を受け入れてしまうことになります。医師、インターンと看護師との間の相互行為は、さまざまな権力関係として観察できるような相互行為のなかにつねに直接に現れているとは限らないのです4

[ヴァカン注]4 ブルデューがここで言及しているのは、病院での医師による診断の際に言葉がどのように交わされるのか、医師による診断がどのような社会的仕組みをもっているのかについての アーロン・シクレルの研究である(Aaron Cicourel 1985)。

【3】 しかしそれですべてではありません。ドクサについての現象学的分析を、日常世界に対する言葉に出されない従属〔についての分析〕として社会学化しなければなりません。[...] 現象学的分析がいくつかの社会的位置、とりわけ支配される側の位置について行われた場合には、世界をあるがままに受け入れるもっとも根元的な形式、順応主義のもっとも絶対的な形式を表すものになるのだということを発見するためでもあります。ドクサの明証性に対する政治化されていない関係こそ、既成秩序へ全面的かつ完璧に取り込まれてしまった状態です。[...]
 [...] ドクサというものがもっているあらゆる政治的含意がもっともよく見えるのは、女性に対して行使される象徴暴力においてです。私はとりわけ、社会的に構成された一種の アゴラフォビアを念頭に置いています。このアゴラフォビアゆえに 女性たちは、女たちが(...)排除されている公的活動や式典の場から、とりわけ公的な政治の領域から自ら身を引いてしまうのです。[...] ですから、狭い意味での現象学もしくはエスノメソドロジー流の分析は、主観的構造と客観的構造との間にある直接的一致という関係の歴史的基礎、そして同時に政治的意味を見過ごしてしまうことになるのです。

注4が付いている一文、たぶん なんか邦訳がおかしいね。

行為者や相互行為を超えたところにある目に見えないマクロ構造が、行為者の背後から働くよ。
p.189p.186
 この分析をもう少し前進させるためには、性、教育水準、出身階級、居住地など、あらゆる種類の位置を示す指標 を導入する必要があります。これら全ての変数が、あらゆる時点で「コミュニケーション行為」の客観的構造の決定に介在しており、言葉のやりとりがどのような形式を撮るのかも、実質的にこの構造次第で決まるのです。この構造は無意識のものであって、ほとんどつねに 話し手の「背後」から 働きます。一言でいえば、フランス人がアルジェリア人と、あるいは黒人が WASP と話す場合、お互い話しているのは二人の人間ではなく、植民地の歴史の総体であり、合衆国における黒人の(あるいは女性、労働者、マイノリティなどの)経済的、政治的、文化的屈服の全歴史なのです。ついでにいうと以上の点は、〔エスノメソドロジーの研究者たちによる〕直接目に見える段取り* への固執」(...)にしても、できる限り分析を「具体的現実」に近づけておこうとする関心──会話分析に着想を与え(...)ミクロ社会学志向を育てて来た関心──にしても、逆にそれらが直接的直観を逃れるリアリティをとらえ損なうかもしれないことを示しています。そうしたリアリティは、相互行為を超えた構造のうちに宿っており、構造のほうこそが相互行為に意味を付与しているからです43
[ヴァカン注]43 ウェーバーの宗教社会学に対してブルデューがおこなった批判的解釈の中に(...)構造分析と相互行為分析の水準ならびに方法の違いについての説明がある。そこでブルデューは、ウェーバーが相互行為の観点から記述した宗教行為者感の関係を構造という観点から定式化し直した。分析の構造的水準と相互作用的水準とのあいだの区別は、個人住宅の売り手と買い手とが情報収集や根切りの段階で繰り広げる言葉の戦略についての研究のなかで例証されている。この研究でブルデューは、
ディスコースが組み立てられる法則は、ディスコースを生み出す空間を組み立てる法則のなかに宿っているにもかかわらず、ディスコース分析は その法則をただディスコースのなかだけに探し求めるために、法則の発見はあらかじめ禁じられてしまう
のはどのようにしてかを示している(...)。[...]
 [言語の純粋に経済学的な分析と純粋に言語学的な分析の]二つの立場がともに忘れているのは、言語学的関係はつねに象徴的な力の関係であり、その関係を通して話し手の間、ならびに話し手が属するh数段の間の力関係が変形された形で現実化されるという点です。結果的に、純粋に言語学的な分析の範囲内では、コミュニケーション行為の解釈は不可能なのです。もっとも単純な言葉の交換でさえ、特殊なタイプの社会的権威を授けられた話し手と、この権威を承認する度合いの異なる様々な聞き手の間の歴史的力関係、さらには話し手、聞き手それぞれが属している集団の間の歴史的力関係が織りなす網の目、複雑で枝分かれした網の目を動かしているのです。私が証明しようとして来たのは、話し言葉でのコミュニケーションで起こっていることの大部分、メッセージの内容自体に至るまでの部分も、言葉の交換の中に見えない状態ではあっても現存している力関係の構造全体を考慮に入れなければ理解できないままである、ということなのです。

せんせー、その客観的な何かは、どうやって「背後」から働きますか。

* 「手続き」のことであろう。