1a |
- けれども、全体社会が、ノーマル性からの逸脱や事故や予期せぬ出来事などを みずからどのように説明し処理しているのかを問うとき、こうした課題を超えた地点にまで行き着く。
|
|
1b |
- したがって、災いをどう説明し どう扱っているのかという問いの中に、重要な批判的潜勢力が潜んでいる。
| [直前の同じ個所] |
1c |
- ここで問題となっているのは、ノーマルな形式のほかの側面である。
| [この段落を一言で要約した] |
2 |
- むしろ、問われるべきなのは、現代社会が災いをリスクという形式で把握しようとしている事実から、われわれは、この全体社会のノーマルな成り行きに関して どんなことを読み取れるかである。
|
- 「むしろ」→「リスクはノーマルなものになった」といいたくなる人がいるかもしれないが。
- 「リスクという形式で」→昔であれば魔術や魔法、宗教などの語彙で理解されていたわけだが。いまでは、〜
|
3 |
| |
4a |
- むしろ問われるべきなのは、ノーマルである/逸脱している という区別が、(…)、今日の全体社会を観察するための道具として保持されるづけるならば、何を見ることができるようになるのかであろう。
- とりわけ本書のテーマであるリスクにあわせて問いをアレンジするなら、リスクについて語られるとき、合理性、決定、技術、未来、あるいは時間そのものについてのどんな理解が前提とされているのだろうか。
- もっと根本的な問い方をすれば、かつては航海者や茸狩りをする人々、あるいはその他の、みずから冒険に身を投じる集団のみが見舞われていたリスクが、防止することも回避することもできない普遍的な問題に変わるとき、この全体社会はどのように把握されているのだろうか。
- (略)
|
- 「むしろ」→「ノーマルなものは、いまやどれほどノーマルなのか」(〜かつてノーマルだとみなされていたことは、いまやノーマルではなくなってしまった)と述べる人がいるかもしれないが。
- 「むしろ」→〈正常/逸脱〉という区別が無意味になってしまったわけではなく、今でもふつうに使われているのだから、それに対する社会学的な考察は可能だろう。(仮にこの区別をめぐる事情が何か変わったのだとしたらなおさらのこと、それは社会学的に検討されなければならない)
|
5 |
| |
6 |
| |
7 |
| |
8a |
- まさにそれゆえに、この問題は社会学的に興味深いのである。
| |
8b |
- 〔社会学にとっては〕ノーマルな形式の分析が問題なのだ という出発点を受け入れるのであれば(…)、何がそこで起こっているのかに関するより精確な究明のみが、その課題となる。
| |
9 |
- そのためにはとりわけ、リスク概念の精緻化が必要であり、またリスク概念やそれによって指し示めされる事柄が、全体社会システムの近年の趨勢の中でなぜ重要視されてきているのかの理由の分析が必要になる。この問いにわれわれは、次のテーゼでもって答えたい。
| [すぐ続く箇所] |
10 |
| |
11 |
| |