おかいもの:佐藤『社会調査史のリテラシー』/田中&荻野編『社会調査と権力』

遅ればせながら『社会調査史のリテラシー』を。

あと『ポケット図解 マックス・ウェーバーの経済史学がよくわかる本』というのを見つけたのですかさず購入。

そしてこれ↓

社会調査と権力―“社会的なもの”の危機と社会学

社会調査と権力―“社会的なもの”の危機と社会学

2007年刊行。序章にて編者曰く:

 本書でいう「権力」ということばも、…、狭い意味での権力を指しているわけではない。つまりそれは、社会調査や社会学的な知が 権力や支配の道具なのか、それとも抵抗や解放の手段なのかというようなことを単純に問題にしているわけではない。そうではなくて、あくまで社会調査や社会学的な知それ自身が、経験的な世界の一部であって、いわば「透明な」存在ではなく〈社会的なもの〉との関係のなかに巻き込まれた「実践」であるということ、このことを示すための用語であると理解していただきたい。

 

意味が分からないよ\(^o^)/

 

  • 序 章 〈社会的なもの〉の危機と社会調査(田中耕一
    • 一 はじめに
    • 二 〈社会的なもの〉の危機
    • 三 社会学と社会調査の行方
    • 四 本書の構成

第I部 〈社会的なもの〉の変容と社会調査的な知

  • 第1章 リスク社会と知の様式──不知と監視(三上剛史)
    • 一 はじめに──なぜ「リスク」という認識がなされねばならないのか
    • 二 リスク社会を見る視線
    • 三 ポスト福祉国家の監視と予防
    • 四 リスク社会と「不知のエコロジー
    • 五 フーコー派とルーマン派の交差
    • 六 まとめ
  • 第2章 保険と調査:もうひとつの社会調査史(小幡正敏)
    • 一 はじめに
    • 二 死亡表と政治算術
    • 三 社会の発見と保険社会の成立
    • 四 組織された社会と社会調査
    • 五 保険の専制
  • 第3章 高齢者介護の計測と身体管理──介護保険による身体へのまなざしの変容(寺田明代)
    • 一 はじめに
    • 二 介護を計測するということ
    • 三 人工レベルでのケア給付の調整
    • 四 介護予防へ──「予防重視型システム」への転換
    • 五 介護予防の行方──介護リスクへのモニタリングへ

第II部 社会調査は何を行っているのか

  • 第4章 薬害HIV感染被害問題調査のリフレクシヴな理解(山田富秋)
  • 第5章 曖昧さのない質問を行うこと──相互行為のなかの情報収集(西阪 仰・川島理恵)
    • 一 はじめに
    • 二 質問のデザインと価値負荷
    • 三 質問者による回答への働きかけ
    • 四 返答の共同の達成
    • 五 結びにかえて
  • 第6章 心は直観的統計学者か?──実験心理学における確率統計モデルの採用(重田園江)

第III部 科学的(社会学的)知と権力をめぐって

  • 第7章 冷戦下の社会科学と社会学──近代化論を中心に(渋谷 望)
    • 一 はじめに
    • 二 地域研究からの問題提起
    • 三 近代化論と社会システム論
    • 四 社会科学と冷戦
    • 五 近代化論の幕切れ?
  • 第8章 科学的言説と権力──身体と権力の奇妙な関係と科学的言説(田中耕一
    • 一 はじめに──言語の問題と社会学
    • 二 「言表」の水準──言語の透明性と不透明性
    • 三 「規律」とはどのような(権)力なのか
    • 四 セクシュアリティの「大いなる多様化と増殖」の時代
    • 五 身体と権力の奇妙な関係と科学的言説
  • 終 章 死と社会調査──いま求められている実践としての知とは何か(荻野昌弘)
    • 一 はじめに
    • 二 情報の収集と蓄積
    • 三 死の統計
    • 四 「偶然」という概念
    • 五 死に対峙する調査者

第1章 リスク社会と知の様式──不知と監視(三上剛史)

ここでクリストフ・ラウの分類を利用して「新しいリスク」を特徴付けるなら、一般にリスクと呼ばれているものには三つの類型がある。

  • (1) 初期資本主義の起業家や遠隔地貿易に伴う危険などの、一定の職業や社会的身分に付随した「伝統的リスク」
  • (2) 失業や労働災害など、近代産業社会がその福祉国家的保険制度の対象として社会的に保障しようとした「産業-福祉国家的リスク」。そして、
  • (3) 現代の新しいリスク

である[Lau 1989:420ff]。

「やり方は三つしかない。正しいやり方。間違ったやり方。俺のやり方だ。」というフレーズを思い出しました。


この論文誰か持ってない?

  • 近藤理恵(2002)「リスク社会の社会病理──もう一つの「負け犬」の理論」『現代の社会病理』17

第2章 保険と調査:もうひとつの社会調査史(小幡正敏)

三 社会の発見と保険社会の成立

初期の社会学における「社会」の発見/発明は、政治哲学内部における出来事でもあったのであり、それゆえ社会学は 政治哲学の変形された経験バージョンともみなしうるのである[Wagner 2001:132]

 もともとある時期まで、保険(とりわけ生命保険)という仕組みは社会の秩序を阻害するとみなされていた。生命保険会社が世界に先駆けてつくられたのはイギリスだが、その後を追ったフランスでは、生命保険制度の生成期である18世紀末から19世紀初頭において、人名を保険の対象とすることへの強い反感が見られたという。

生命保険は人名の損失を期待した一種の賭け事であり、公序良俗に反すると考えられていた。

ところが19世紀の後半になり、価値転換がおきる。保険に対する否定的見解は影をひそめ、保険という制度は善いもの、あるいは義務的なものだとする見方が一般的になっていくのである。ドイツのビスマルクによる先駆的な社会保険制度導入にも影響され、フランスでは1898年労働災害補償法が成立する。またそれに先立つ20年ほどの間には、民間の保険会社も次々と設立されていった。[p.52]

この論文だれか持ってない?

  • 園田浩之(2005)「社会の誕生──フランソワ・エヴァルドの思想史に依拠して」『ポイエーシス』20, 1-23.
五 保険の専制

… 保険社会とは、「それじたいがリスクであるものなどどこにもないのに、すべてがリスクとなる」社会であった。逆説出来であるが、〈社会的なもの〉の退潮とともに、保険社会のそうした性格がむき出しになりつつある。それは「保険の専制」とでもよぶべき事態である。
 そのことを典型的に示す事例のひとつが、このところ盛んに指摘されるようになってきた、逸脱者管理における規律訓練型から保険技術型への移行である。両者のやり方は対照的である。

  • 規律訓練型管理は 逸脱者をひとりの個人としてとらえ、その個人に教育や訓練をほどこしながらノーマルな存在へとつくりかえる。学校や刑務所をはじめ、近代的世知度の多くはこのやり方を踏襲してきた。
  • 他方、保険技術型管理は逸脱者をひとりひとりの個人として認識せず、ひとまとめのリスク・グループとしてとらえ、リス君要因と程度に応じてそのつど確率的に対処する。[p.61]

 社会調査は、記号=データの背後に「統合された人格」や「組織された社会秩序」を想定する点で、基本的には規律訓練型のやり方であった。しかし「組織された社会」の解体や〈社会的なもの〉の退潮とともに、保険の専制という状況に近づきつつある現在、社会調査のあり方も保険技術型へと傾いてゆくことになるのだろうか。規範志向を捨て去り、新たな死亡表と政治算術の構築を目指すことになるのだろうか。それはわからない。ただ、グラントの死亡表が、亡くなっていく子どもの死そのものとは徹底して無関係であったように、保険の制度は「死そのもの」には一切手をふれることなく、死に対する抽象的な恐怖のみを引き伸ばしてゆく。[p.62]

自由連想がキツすぎる。

第3章 高齢者介護の計測と身体管理(寺田明代)

あとでもういちど読む。

第5章 曖昧さのない質問を行うこと(西阪 仰・川島理恵)

ガーフィンケルの謂う「修復不可能な文脈依存性」について[Garfinkel 1967; Garfinkel and Saks 1970]。p.127

  • 実際に用いられている表現および行為は、すべて本質的に文脈依存的である。
  • しかし、それは特定の文脈、すなわち特定の目的や課題を持った活動において その目的・課題に照らして合意的で明確な意味を持つことができる。
  • だから、表現と行為の合理性は、その表現・行為そのものの特徴というより、むしろ、特定の文脈(もしくは活動)に参加する、その表現・行為の産出者および受け手の、その活動の只中における共同の産物にほかならない。

これがガーフィンケルの主張したことだった。

アドバイザーの質問がどのような意味を持ちうるかは、当人たち(アドバイザーと母親)が、現在の活動(母親が助言を得るためにアドバイザーに適切な情報を提供するという活動)にとって適切なやり方で、相互行為の具体的な展開に従って、共同で達成される。つまり、質問の意味は、アドバイザーによる継続の促し、それを受けての母親による返答の拡張、というように、互いの出方に依存しながら成し遂げられていた。
五 結びにかえて

まとめ。p.134

 いままで本性で見てきたことは、質問と返答の意味は、「質問-返答」連鎖の具体的な展開の中で相互行為参加者たちにより共同で達成されるということである。とくに

連鎖の可能な完結点(第二成分である返答の完結点)の直後に質問者に用意された機会に注目してきた。この機会がどう利用されるかによって返答のあり様も違ってくる

さて、このように言ったからといって、質問や返答が本質的に曖昧であってよいわけではない。まして、いつでも修復可能だからといって 何でも勝手にやってよいというわけではない。この点は、何度も述べてきたとおりである。

質問や返答の、合理的な、曖昧さのない明確な意味を、相互行為参加者たちは、相互行為の具体的な展開のなかで、文化に具わった規範的な仕掛けを用いながら共同で成し遂げていくのである。
 とするならば、調査票というのは不思議な工夫だ。それはたしかに「質問-返答」連鎖を開始する。が、連鎖の可能な完結点の直後に、通常ならば質問者に用意される機会が、質問者から体系的に奪われている(郵送調査の場合だけでなく、個別面接調査の場合も、質問を言い換えたりする機会は体系的に奪われる)。…