涜書:ルーマン「社会的秩序は如何にして可能か」/ルーマン&ショル「教育が可能であるとはどういうことか」

どっちも1981年。

社会システム理論の視座

社会システム理論の視座

訳者が付した節タイトル
I予備的考察
II主題定立の機能
  • 当該主題に関する問いの二つの水準:
    • 1. 「個々の理論は、どのように主題を解決しているか」
    • 2. 「主題の定立とは何か」
  • 研究の分化: 個々の学問は、社会のなかであらかじめ与えられている意味づけとの結びつきをゆるめることによってはじめて、次のような研究が 個々の学問の内部でみられることいなる。すなわち、
    • [1. Leistung] その学問の環境のなかでは解決済みとして知られる諸問題を応用しようとする研究がまず考えられ、
    • [2. Funktion] ついで方法論に力点をおき、第一次駅には真理の機能を最大限に高めようとする研究、
    • [3. Reflexion] さらには 個々の理論を創出している主題の定立の統一性を機軸とする その主題に関する省察などが 個々の専門の内部で考えられることになる。
  • 「いかにして〜〜は可能か」という問いの形式
III 二つの秩序問題
  • 「秩序はいかにして可能か」という問いの部分問題
    • 【問題1】人と人との間の関係 [〜社会性]
    • 【問題2】人と社会秩序の間の関係
  • 伝統的な三つの方策:
    • 1. 強い肯首性をもつ概念の利用。 ex.コイノン、グルッペ、ゲマインシャフト
    • 2. メタファーの利用。 ex. Vershmelzung(融合)
    • 3. モデルの利用。 ex. 契約
  • その問題:
    • こうしたやりかたのどれもが本性とか道徳に関する仮定に依存している。(それが見抜かれた場合にはじめて社会学が成立する。(デュルケームジンメル症例)[p.39-])
    • 秩序問題を、1か2のどちらかのみにコミットして扱ってしまう。
      • 「社会秩序は koinon である」→個人とゲマインシャフトの差異しか扱われない
      • 「社会秩序の基盤は契約である」→諸個人の諸々の利害の集計がもっとも主要な問題となる。
      • 「融合」や「相互作用」などのメタファーが使われる場合→問題1と2のどちらを扱うかはどうでもよくなる=問題が適切に分解されない。
IV アリストテレスにおける「秩序の問題」アリストテレスにおいては、ニ問題が政治学倫理学とに分離される。
  • a. 環節分化の(=セグメントへの所属を示す)ゼマンティク:〈親密/疎遠〉、〈所属/非所属〉、〈信頼しうる人/信頼しえない人〉、〈味方/敵〉
  • b. 部族の成人男子の結合を横断する軍事的-政治的連合 → 「「家」ごとの環節化の「友愛」による打破(〜都市国家という共同社会の道徳的強化)」の必要性:(都市国家という)共同社会の「人と人との間の紐帯」による基礎づけの必要性。
  • [§07〜] アリストテレスの政治的社会についての理論:koinon、koinonia [社会秩序と人との関係]
  • [§10〜] アリストテレス倫理学: philia [人と人との関係]
V ルネッサンス期の社会理論
VI 中間考察
VII 主体アプローチの限界
VIII ウェーバーデュルケームのばあい
IX ジンメルにおける「秩序の問題」
X パーソンズにおける「行為の問題」と「秩序の問題」
XI 一般理論としてのパーソンズ理論の可能性
XII パーソンズを超えて

「Xはいかにして可能か」という問いについて

第1章第4段落:

学問が取り上げるべき主題は、主題それ自体を現実化するための諸条件をみずから獲得しなければならない。つまり、それがいかにして現実化されるのかをみずからの問題として取り上げなければならない。「いかにして社会秩序は可能か」という問いが考えられるのも、社会秩序が現実に見出されうるばあいに限られている。教育や認識などについて考える場合もそうである。

  • このことがとりわけ含意しているのは、かかる[「Xはいかにして可能か」という]主題は ともかくもすでに取り上げられた問題に関して立てられているということであり、そうでなければ、主題の定率そのものが考えられはしないだろうということなのだえる。
  • さらにまたこうした主題は、自己参照的に定立されているのであり、その点について考えなければ、主題の定立は根拠付けられるわけがない。
  • しかも、そうした主題の定立をおこなおうとする一切の理論は、そのことに加えて、そうした主題の定立を可能なら閉めている諸条件をも考慮しうるのかどうかに関してもあわせて吟味しなければならない。

そんなwけで、従来の根拠付けに代わって、主題定立の自己参照に関するこのような吟味が登場することになる。[p.11-12]

「いかにして〜〜は可能か」という問いの形式

第2章第5段落

「いかにして」ということも「可能」ということも、それぞれ所与の現実のあり方を解明する機能を有している。つまり、「いかにして」や「可能」ということは、そうした所与の現実のコンティンジェンシーを想定している。くわしくいえば、所与の現実のコンティンジェンシーのなかで、現実の諸関係が再び実現される際の不確実さがみとめられるおいう点では、二十の仕方でそうしたコンティンジェンシーが仮定されている。「いかにして」によって明らかにされるとおり、可能な事柄が現実化されるのは そのしかるべき先要諸条件が充足されるからなのであり、そのようにして(たとえば、認識のいかんが認識能力によって規定されているように)可能な事柄は それを現実化する諸条件の いかんに応じて具体化されることになる。そうしてみると、主題定立というゼマンティクの形式が明示しているのは、ものごとの関係のあり方に関して想定されたコンティンジェンシーのことなのである。したがって、そうした問いの形式は、当の事柄が現実に可能であることに対して何の嫌疑をも表明しておらず、この点では 懐疑論の伝統から区別されている。この問いの形式は、可能なものを現実化し具体化している現実の世界を捉えようとしているのである。社会秩序問うものが現実に存在しうる可能性があるのみならず、それが実際に存在していることに関しては誰も疑いをさしはさみはしないだろう。そうした問いは、いつでもすでに解決済みの問題を定式化している。しかし他面では、この問いが定式化しているのは、一見したところパラドックスと考えられるかもしれないが、解決されえない問題なのである。というのも その問いが科学理論の構築や科学的研究に関して述べているのは、方法的にも実際的にも解決しうる課題などではなく、次のような問題だからだ得る。すなわち、解決されたとしてもなお問題でありつづけ、いいかえれば、企てられた解答パタンのすべてが問題を残しており、したがって、それらの解答パタンを再び問題として取り上げる余地がのこされているのである。たとえば、「いかにして社会秩序は可能か」という問いに対して、伝統的な見解では「支配によって」という解答が与えられるのだが、その際には、その問題点は支配の理論へと移しかえられており、こうした解答の段階においては はじめから支配から自由な社会という考え方は断念されている。 [p.23-24]

「いかにして教育は可能か」

第2章第15段落

[p.31-32]

アリストテレスにおける友愛の位置

第4章第5段落:

 政治的には、みずからをみずからによって統治する都市国家が成立することによってはじめて、環節社会のゼマンティクの基盤が突き崩されたのである23。そこで、環節社会の中でまさに その社会構造に即して引かれていた友愛関係と敵対関係の間の境界線がぼやけてしまい、それが流動化して、誰が味方で誰が的なのかに関して熟考したうえで判定しなければならないといった問題が課されることになった。と同時に、友愛関係と敵対関係との比重も変わることになる。つまり、友愛関係が、都市国家の内部における人と人との関係の様態それ自体にとっても、またかかる様態が首尾よく成就するためにも、敵対関係よりも重要になって来たのである。いずれにせよ、友を愛すべし、敵を憎むべし、友には利益を与えるべし、敵には損害を与えるべし といった格率を、実情を吟味することなしに都市国家の内部で主張することは もはや できない。かかる格率が どの程度まで政治的秩序、平和および正しさと両立しうるのか という問いが緊急のテーマとして登場することになったのである。そのことに ともなって、いまやむしろ友愛関係の基本的特長を析出しようとする努力が重ねられるようになる。その結果として、友人同士の間の平等とか、交互の側での自由な選択といった友愛関係のメルクマールが前面に押し出されてくる。それゆえにアリストテレスの理論では、人と人との間の関係について 倫理的にみても政治的にみても肯定されることを言い表す概念は、結局のところ友愛関係なのである。かかる変化が都市国家の政治的変動に起因するとすれば、その際には友愛関係の理念は再び政治に対する道徳的要請を誘発することになる。そうしてみると、まさにそのとき以来、人と人との間の関係都市国家に対する人びとの関係とが区別されて来ているのである。[p.45-46]

注23、「〜〜の未公開論文に示唆を受けている」ってヤメてくれ〜〜〜