III 機能システムの分出とセカンド・オーダーの観察

p.100-104

 近代社会の諸機能システムが成立しているのはセカンド・オーダーの観察のレヴェルにおいてである。…

  • たとえば科学システム。このシステムにおいてファースト・オーダーの観察もまた一定の役割を演じているということ、また科学者の行動は《真理の追求》によってはまったく説明されえないということは、科学実験室をめぐる最近の研究によって充分に証明されている。しかしながらこれは、この研究方向を推進する人々が考えているのとは異なって、その上にセカンド・オーダーの観察を重ねることを排除するものでは決してない。
    • ファースト・オーダーの観察とセカンド・オーダーの観察との構造的カップリングを打ち立てるメディアは、出版物である。それはファースト・オーダーのパースペクティヴにおいてテクストとして産出され、読まれることになる。しかし出版物は同時に、ほかの科学者の観察様式を見通す余地をも与えてくれる(そしてそこから自分自身を振り返ってみることもできる)。出版物はこの点において初めて、科学固有の意味を獲得するのである。かくしてテクストの出版は(研究状況の報告やほかの出版物の引用も含めて)、科学の生産の基礎的要素に、すなわち科学のオートポイエーシスの作動に、なるのである。科学理論のゼマンティクも、「真/非真」のコードおよびそれに付加されるゼマンティクも、またこのコードに特化したプログラムも(すなわち、真/非真というコード値をめぐる振り分け)を理論的・方法論的に指定することも)、出版されコミュニケーションのために整えられたテクストとの関連において初めてその意味を展開していく。それゆえに出版物に即して作業を進めていくことは、分出した学システムのセカンド・オーダーレヴェルでの連続性を保証してくれるのである。
  • 経済システムに関しても同様の事態を確認できる。経済もまた、市場の手を借りてセカンド・オーダーの観察に適応する。そのためにはここでも、ファースト・オーダーの観察というメディアへと集中していく過程が不可欠である。
    • 支払いは取引という文脈において、つまり「それには幾らかかるのか」に関して観察される。かくして変動価格が必要となり、また可能にもなる。この価格によって、他人が購入および売却の容易ができているかどうかを読み取りうるわけだ。取引は、価格を一時的に固定することを前提とする(同時に取引がこの固定化を引き起こしもするのだが)。それによってセカンド・オーダーの観察が可能になる。すなわち市場に関与する者は、他者が(そして自分自身が)その価格で買う/売るのか否かを観察するのである。あるいはまた、市場において実現されるだろう価格を考えれば生産することが、また生産のために投資することが引き合うのか否かが観察されもする。…
  • 第三の例を政治システムから取ろう。政治というこのまったく異なる文脈のもとでも同一の構造が生じていることを発見しても、もはや驚くには及ばないだろう。政治とは何よりもまず、集合的に拘束力を持つ決定のために権力を投入することである。そのために設けられた職務において支配を実行するというレヴェルでは、事態はまさにそのように観察されねばならない。
    • しかし同時に、支配者にとって民衆の意見などどうでもよいというわけにはいかない。これもまた古典的政治理論に属するテーゼである。マキアヴェッリの定式化を借用すれば、支配者にとって城塞は民衆の心の中に存するのである。…
    • 〔かつてはセカンド・オーダーの観察は「上からのみ」か「下からのみ」であったが〕いわゆる政治の民主化によって、また政治が世論というメディアに依存することによって、この事態は変化を蒙る。… 政治家にせよ有権者にせよ政治への関与者はすべて、世論という鏡において互いを観察する。行動が《政治的》なのは関与者が、自分がいかに観察されているかに反応する場合なのである。ここではファースト・オーダーのレヴェルは、継続的に報道を行うマスメディアによって保証される。しかしさしあたりそこから生じる効果は、情報と娯楽にすぎない。セカンド・オーダーのレヴェルに至るには、逆推論を経なければならない。すなわち、政治に参与しようとする者全員が世論の判定における観察者として相対していること、そしてそれで充分であることを仮定する場合に、他人および自分に関して引き出しうる逆推論が必要なのである。そこでの世論とは、心理システムの状態を集積した概念などではなく、さらなるコミュニケーションの出発点として、特殊コミュニケーション的に生産されたものとなっている。

 さらにいくつかの例を付け加えておこう。

  • 宗教システムでは紙は常に観察者として把握されてきた。そしてまさにそれゆえに、この観察者を観察することが問題となったのである。
    • それが悪魔の宿命である、いや神学者の(…)宿命である、いやそれは神の概念それ自体のうちに潜む問題なのだ云々。
  • また近代家族は(以前の世界においては、その概念すら存在しなかった)親密性の論理に服することによって、観察の観察のホットセルとなった。
    • それに応じて観察の圧力が生じてくるから、無邪気に行動することは困難となる。そこからルーティーンが生じてくることもあれば、病理が生じることもあるわけだが。
  • 法システムにおいえる立法と司法の関係は、今日では相互的な観察の関係とみなされている。
    • いわゆるリアリズム法学ではさらに議論が先鋭化されている。法において問題となるのは常に、裁判官による判決を予測することである(正しいと認識された規範の貫徹を保証することではない)というようにである。

ここでは比較へと向かう分析をこれ以上続けるわけにはいかない。われわれが問うべきはむしろこうであった。

  • 芸術もまた、少なくとも美的芸術として術(artes)一般から分化して以来、セカンド・オーダーの観察のレヴェルにおいて独自の道を歩んできたといえるのだろうか。
  • そしてまた芸術はこのレヴェルにおいて社会システムとして、全体社会内のほかの社会システムから区別されるようになったのだろうか。