続き。
「こんなにも異なる特性をもつプログラム領域が、どうしてひとつの機能システムに属するといえるのか」という同じネタを、

  • 技術的前提
  • コード
  • 機能

といったものの共通性とは別の抽象水準──「コミュニケーションにおける動機の帰属」という観点──から論じてみるよ。

動機

「動機」という言葉でもって──心的ひいては神経生理学的に作用する因果的要素として理解されるのではなく──ほかでもなくコミュニケーション的表象だけが問題となっている。つまり、コミュニケーションにおける個人への帰責をいかに扱えばよいか、ということである1

というのも、動機についてのコミュニケーションは、それが仮定している因果関係を究明し、真であることを証明することは実際にはできないことなのだ、ということを受け入れなければならないからである。そうした説明においては、行為の「根拠」というものが、個人に明白にあるいはそれとなしに結び付けられうるが、しかし、

システムの作動からみるならば、そうした根拠は社会的コミュニケーションのアーティファクトなのである。そうしたアーティファクトは、そのようなものとしてのみ、後続のコミュニケーションを生成することに関与できる。その際、個人がどのように考えようとも、そうなのである。

1) これまでのこのような動機概念の記述としては、マックス・ウェーバーからの影響を受けている
  • C. Wright Mills, Situated Actions and Vocabularies of Motive, ... (1940)、また
  • ders. Language, Logic and Culture, ... (1939), ...
さらに詳しくは、[バーク『動機の文法』ISBN:B000J7PU5O]。 帰属の規則にさらに強く依拠したものとしては、
  • Alan F. Blum / Peter McHugh, The Social Ascription of Motices, ... (1971) ...
を参照のこと。

しかし説明下手だなこの人。というか、ルーマンの中途半端さが如実に現れている文章である。

「想定されている受け手」-と-「提供されるもの」の特徴との関連性

こういうのもいちおう「受け手のデザイン recipient design」な話だと言えるかしらね。

  • ニュース/ルポでは、
    • A) 認知的な関心をもつ受け手が想定されている。このことに相即して、
      • B) 報道の対象として行為者(=動機帰属対象)の行為が指向され、さらにそのことと、
      • C) 対象が「有名人」であるとか、なされた行為が特異であること(ex.犯罪的行動)に指向されることが、相即している。
  • 広告では、
    • A) 受け手として、「利益計算し、欲望を満たそうとする生物」としての個人が想定されている。
      • B) ここでは、[動機の帰属対象は受け手であるが、それら受け手としての]諸個人が、各人の恐ろしく多様な状況において 取引に対して持つ動機を描けるような、動機の抽象的な標準化が行われている。こうした標準化にも関わらず、
      • C) 動機を[ニュースとは対照的に]広告の受け手の側に 配置することは、個人を flatter する(the motivational position taken on flatters the individual)。なぜなら こうした動機は、『その行為は自分が決定した』『自分の行為は自分の興味関心のみに基いて行われた』というように個人を記述するからである(because it describes him as the master of his own decisions, as the servant of his own interests alone)。
  • 娯楽においては、
    • A) 動機のポジションを個人化するために、物語的フィクション性が媒質として選択されている。
      • B) 受け手は、登場人物に、抑圧・無意識的・潜在的な欲求などをみてとることができる。
      • C) フィクション性は、一方では登場人物を具体化してみせ、また他方では、登場人物を自分や知り合いに関連付けるかどうかについては受け手に委ねておくことを可能にする。娯楽が与える品目の中から、受け手は、自分に必要であり・自分で対応していけるものを選ぶ。


p.110- マスメディアは、ひとびと persons を[動機帰属によって]個人化する(=「人間」を構築)。

マスメディアの分化した生産物のおかげで、他の機能システムの特殊性に配慮する必要なしに、次から次へと個人に言及していく社会的コミュニケーションというものを仕立て上げることが可能になった。マスメディアは、無理をして家族システムのパーソナル化や、経済システムの匿名化をする必要はないのである。参加している個人が、その参加の意味を自分で決定し、選択し、あるいは遮断することができるように選択された標準化だけで足りるのである。
 したがって、マスメディアのすべてのプログラム領域では、「人間」があんに意味として込められている。しかしもちろん、それは[…]社会的構築物としてのみ含意されている。

  • 「認識的に 多かれ少なかれ情報をもっていて、決断を下す能力があり、道徳的に責任感のある人間」

という構築物は、マスメディアという機能システムが、その(生物学的・心的な観点からみた人間という)環境世界を絶えず刺激することに役だっている[「ホモ・エコノミクス」や「ホモ・ユリディクス」がそうするのと同様に]。

このへん読みに自信なし。あとで考える。