塚本正明(1995)『現代の解釈学的哲学:ディルタイおよびそれ以後の新展開』

  • 第1章 ディルタイと解釈学の問題 003
    • 1 生の解釈学 003
    • 2 体験‐表現‐理解の連関 005
    • 3 理解と説明の区別 009
    • 4 解釈学と論理 011
    • 5 解釈学と多義性 016
    • 6 全体と部分、および有意味性 018
    • 7 個性と一般性、および客観的精神 021
    • 8 ディルタイ解釈学の問題点 027
  • 第2章 世界と解釈 035
  • 1 世界・解釈・主体 035
  • 3 世界解釈の主体への問い――解釈の媒体として言語という問題 053
    • 1 解釈主体の歴史性(ガダマー) 053
    • 2 解釈のア・プリオリとしての言語 059
  • 4 世界解釈と世界経験─言語主義批判 072
  • 第3章 解釈と伝統 075
    • 1 ガダマーの「伝統」概念 075
    • 2 先行構造としての「先入見」 082
    • 3 言語主義 085
    • 4 真理の多元論 089
  • 第4章 言語と解釈学的反省 094
    • 1 ガダマー VS ハーバマス論争 094
    • 2 「言語」をめぐって 096
    • 3 「反省」をめぐって 124
    • 4 論争の批判的総括 136
  • 第5章 解釈の客観的妥当性と歴史性 139
    • 1 解釈の学問性への問い 139
    • 2 ベッティの「客観性」理論 141
    • 3 ハーシュの「妥当性」理論 145
    • 4 ベッティ、ハーシュ、ガダマー 164
    • 5 主客二元論から間主観性次元ヘ 168
  • 第6章 解釈学的ロゴス学の探究 171
    • 1 ボルノウによるゲッティンゲン学派の再評価――伝統的論理学を拡張する必要性 171
    • 2 ミッシュとリップスの探究――解釈学的ロゴス学の基本特徴 176
    • 3 解釈学的ロゴス学の意義 196
  • 第7章 付論―解釈学的理性批判のテーゼ 199
    • 1 「意味」の世界 199
    • 2 解釈学的問題構制 203
      • 1 解釈学的世界観 203
      • 2 解釈学的認識論の問題系 209


第1章 ディルタイと解釈学の問題 003

1 生の解釈学 003

  • [004] ボルノウはディルタイのプロジェクトを「生の解釈学」と呼んだが、
    「それは、他者認識(個性認識)の問題から歴史認識の問題をとおって、最後に「生」の認識(人間の自己認識)という普遍的な問題にいたりつく。それは、従来の独断的形而上学のように「世界」それ自体の解釈を一気にめざすのではなく、まずは人間的生(世界解釈と世界観もじつはここでなり立つ)を、内在的に生それ自身のほうから「解釈」し「理解」しようとする。」
  • [004] ディルタイ(GS VII)「すなわち、「以前には、世界から生をとらえることがこころみられた。しかし、生の解釈(Deutung)から世界へむかう道があるだけである。そして生は、体験や理解や歴史的把握のうちにのみある」

2 体験‐表現‐理解の連関 005

  • [006] ディルタイが「体験の表現」というときの〈体験/表現〉には、〈驚きの体験/驚きの表情〉みたいなものも含まれているよ。
  • [006] 「表現的世界と歴史的世界とは基本的に重なりあう。ここにおいて「生」が歴史的。社会的に限定されているという事実が開示されることによって、(個体)心理学を精神科学の基礎学とする心理学的発想は一定の限界に直面することになり、そこから「表現」としての歴史を媒介とする、人間による人間自身の「生」の省察、すなわち「歴史的自己省察と呼ばれるひとつの解釈学的認識方法が、「理解」の具体的な方法として重視されてくることになる」

5 解釈学と多義性 016

  • [017] 「もともと解釈学的理解がめざしているのは、有意味な部分の固有の意義を全体としての意味連関の構造のうちに位置づけ規定することである。けれども、その場合に全体を組成する部分は、さしあたり「規定されていて‐規定されていない」(bestimmt - unbestimmt)ものとして与えられる。つまりその部分の意義というのは、さしあたり多義的である。そこでこの部分の意義を規定するには、まず全体の意味連関を予想しなければならず、また逆に、全体の意味連関をじっさいに確定するには、部分の意義規定をまたねばならないということになる。ここに、よく知られた「解釈学的循環」が必然的に生じるわけである。」
    • 「したがって「解釈」というのは、部分が全体に対してもつ有意味性を、そうした「循環」を積極的に受容し媒介としながら解明していくことにほかならない。意味理解をはかる「解釈」は、部分の意義規定と全体の意味確定(構造確定)との循環的進展によって遂行されるのである」

6 全体と部分、および有意味性 018

  • [019] ディルタイの見解からすれば、要するに意味理解というのは、部分を全体構造[の意味連関]に構成的に関与する「意味」エレメントとして解釈することなのであり、そしてそれは、じっさいには、いわゆる「解釈学的循環」のうちで「無限の課題」として遂行されるほかない」
  • [020] ハーバーマスによる解釈学的循環の定式:
    「しかし、ここでふたたび留意すべきことは、ハーバマスが述べているように、もともと「テクスト解釈は、はじめは散漫に先行理解された〈全体〉による〈部分〉の解釈と、全体に包含された部分によるこの先行概念﹇全体一の修正とのあいだの相互関係に依存している」という「解釈学的循環」にほかならない。つまり「全体」という先行概念は、解釈学的理解のいわゆる「先行‐構造」(ハイデガーの「先行理解」やガダマーの「先入見」の構造)をなすものでありながらも、ハーバマスの一一口う「仮説性」の性格をまぬがれないとすれば、さしあたり具体的なエレメント(部分)の経験的な記述分析をまず必要としているということである。」
  • [020] 「晩年のディルタイが生の歴史的世界を「作用連関」(Wirkungszusammenhang)という根本概念によってとらえたとき、さらに「有意味性」(Bedutsamkeit)のカテゴリーが登場してくる。すなわち、「部分の全体に対する意義が作用連関に基づいて規定されてくる場合、このようにして生じた意味の規定性」(VII 238-239)をあらわすカテゴリーである。「有意味性」というのは、あくまで「生」それ自身に内在する構造的関係である。つまり、「生」の個々のエレメントが「生」全体に対して有する意義、個々の精神的・行為的事象が世代や時代の歴史的現実全体に対して有する機能的役割といったものが「有意味性」