鏑木政彦「相互作用と歴史」

そういえばこの論文、注68 が無いんだよな 68 は 66 の間違いであるな

  • はじめに
  • 1 相互作用としての「生」
    • (1)「相互作用」の前史
    • (2)初期ディルタイにおける相互作用論──システムの自律性と類型論
    • (3)相互作用論の展開──相互作用とシステム
    • (4)相互作用論の展開──ジンメルに即して
  • 2 歴史性としての「生」
  • 結びにかえて
鏑木政彦「相互作用と歴史」(PDF:300k)



グリムのドイツ語辞典によれば、「相互作用」という言葉は18世紀半ばの哲学に由来する。具体的には、カントの初期の自然哲学において物体の間に作用する働きを相互作用として記述した例が初期の用例として挙げられている6。[p.2]

6 「天体の一般自然史と理論」(一七五五)、『カント全集〈2〉前批判期論集(2)』(岩波書店、二〇〇〇年)には、次の例がある。
全ての粒子が一つの方向に向かって平行した軌道をえがきながら、すなわち自由に円運動しながら、獲得した跳躍力によって中心物体のまわりを運行しているこの状態においては、要素の構想や混乱はなくなり、すべては最小の相互作用の状態になる
(六〇頁 A266 W279)。[...]

「Wechselwirkung」の概念史について云々する際に、どうして「interaction」の歴史には言及しないのかしら。

カントたちは訳語として「Wechselwirkung」を使ってたんじゃないのかな。....注のカントの引用は、あからさまに「そういうもん」に見えるけど。

つーかこのPDF、ページ数がついてないね...


社会学に対するディルタイの評価。

これら〔コント、スペンサー、シェフレ、リリーエンフェルトなど〕の作品の中における社会学の概念は、法や道徳(Sitte)、宗教を研究対象とする人間の社会的共同生活の学問(Wissenschaft des gesellschaftlichen Zusammenlebens der Menschen)である。それは、心的生が個人の社会的諸関係の条件のもとにおいて想定する形式に関する理論ではない。この後者の社会学概念はジンメルが提起した。そこで社会学は、変化の中で同一であるものとしての社会的形式を対象とする。ジンメルによれば、このような社会的形式は人間の相互に分離可能な一定数の結合方式の中に現れる。・・・そこで肝要なのは、この形式を帰納的に確定し、心理学的に解釈することである。社会はこれらの諸要素の間に生じる個別の結合力の総計にしかすぎない。このようなものとしての社会は、これら結合力が失われた後にはもはや存続し得ない。
 もちろん私は、このような領域を選び出して学問とすることを認めなければならない。その学問の境界づけが依存している原理に基づいてわれわれは、その目的と内容とが変化する中で共同生活の形式として持続的であり続ける諸関係をそれ自身のために研究できるのである。実に、私自身『序説』においてジンメルに先だって社会の外的組織を社会の特殊な領域として、つまり心理学的にみて支配・依存関係と共同体的関係が作動する領域として特徴づけた。私の理解がジンメルと異なるのは、私がこれらの結合力を単純に前述の心的契機に還元することができず、性的共同体や生殖、家族や人種において生じる同質性、ならびに、他方では地理的な近接をも同様に重要なものとみなした点である。(I, 420f.) [p.10]

どっちが社会学者なんだかわかりません。

統一的な原理なしで、[精神科学が発見した諸真理の連関を構築するように]そのような学問が機能すると考えられるとするならば、それは社会における生の織物から個別的な科学として分化してくる個々の精神科学をとりまとめたものである。ジンメルが正しく記しているように、それは社会学というラベルが貼られた壺である。新しい名前ではあるが、新しい知識はない。あるいはそれは、認識論的-論理学的-観点のもとにまとめられる、心理学の基礎の上に自らを立てる個別科学のエンツィクロペディである。その場合、社会学は精神科学の哲学の第二部の記号でしかない(I, 422)。

 つまりディルタイは、人間精神の経験学の様々な知の集積を社会学というなら言ってもよいが、しかしそれは単なるラベルにすぎないとする一方で、認識論的観点のもとに心理学の基礎の上にうち立てるというのなら、それは精神科学の第二部をなすにすぎないと言う。[p.11]

ただしいことを言っているような気がするwwww
それはさておき。



結局「相互作用-と-人間本性」の二本立ての話と、〈作用連関/目的連関〉の話がどう関係ある(or ない)のか わからなかった。
何かを「システム」と呼ぶか(or 呼ばないか)どうかなんてことは たいした問題ではありません。しかし個々の語用において、何かが「なぜ」システムと呼ばれる(or 呼ばれない)のか、というのは大事なことでしょう──当たり前のこと書いてすみませんが。しかしこの論文では、それがよくわからなった。
 たとえば、「人間本性」と関連しておこなわれている こんな議論:

ここで注意を促しておきたいことは、システムが相互作用によって成り立つ際につけ加えられている限定である。相互作用は「共通の人間本性の構成要素に基づいて」協力関係をうまく作りだし、「人間本性の構成要素」を満足させなければシステムとして維持されない。
 後でみるように、この「人間本性」についての思考が、ディルタイの相互作用論と次世代のジンメルが切り開いていくような相互作用論との相違をなす。ディルタイでは、相互作用的観点22 が極限まで押し進められ、人間の心的本性がその時々の相互作用に解消されるまでにはいたらない。文化システムは相互作用のみによって成り立つのではなく、「人間本性の一要素の所産」(I, 52 上巻七四頁)とされるのである。[p.8]

  • 22 この観点の意味をもっともわかりやすく述べているのは、『序説』の次の部分である。
    歴史や社会の諸現象を研究する者には、いたるところで芸術、科学、国家、社会、宗教というような抽象的な本質存在が立ち向かってくる。これらは、ひとかたまりにされた霊のようなもので、われわれの眼が現実に迫るのを妨げるが、自分の正体をなかなかつかまえさせない。以前に実体的形相とか星の霊とか本質とかが研究者の眼と原子や分子の間に支配している法則との間に立ちはだかったように、これらの本質存在は歴史社会的生の現実を、また自然全体とその自然発生的な系統的区分とに制約されている精神物理的統一体の相互作用を覆い隠している。私はこの現実をみる術──それは空間的形象をみる術と同じように、長い間の習熟を必要とする──を教え、このような霧や幻影を追い払いたいと思うのである(I, 42 上巻六三頁)。

注の引用で列挙されている「抽象的な本質存在」──これが「文化体系」なのか?──が「人間本性」の所産であり、ということは、それは「相互作用」とは異なるものであり・その存立の可能性条件であり・それを限定するものである、と言われているように読める。これはこれでありうる議論構成のように思われるけれども──なので、それはそれで「よい」として──、ここで わからないことがふたつ:

  1. 社会的相互作用が「基本システム」と呼ばれ、人間本性(の所産)は「文化システム」と呼ばれる。しかしそれらは、なぜ同じ(システムという)言葉で語られ(う)るのか。また、同じ言葉で語ると何が嬉しいのか。
  2. レーヴィットについての議論は何のために挿入されているのか。「解釈学的解釈」からディルタイを解放して、ディルタイのうちの「社会的相互作用」についての議論に注目させるためなのか*。それとも、なにか──私が気づくことのできなかった──それ以上の狙いがあるのか。
* もしそうであるならば、レーヴィットの議論は 再度「人間本性による限定」というトラップを受けることになり、議論は先に進んでいないように思われる。言い換えると、レーヴィットに対しては「〈作用連関に対する限定〉-の-歴史」について 事情はどうなっているのか、と問いたくはなる。


ちなみにこの議論は、「人間本性」という土台が、「社会的相互作用」(作用連関?)と「文化体系」(目的連関?)を──それぞれ──成立させる、と解することもできそうだ。すると図式としてはタルコット・パーソンズのものに近づいてくるようにも思われる。

パーソンズに対しても、上記の「質問1」を問うてみたくなるわけだが。




「作用連関/目的連関」についての議論は『ヴィルヘルム・ディルタイ―精神科学の生成と歴史的啓蒙の政治学』のほうにもあったと思うので、再読してもうちょっと考えてみることにしますか。ちなみに、こちらを読んだときは、「システム/構造」という語のディルタイの用法は──ルーマンよりは──ロムバッハ系統かな、と思ったんですが:

実体・体系・構造―機能主義の有論と近代科学の哲学的背景 (MINERVA哲学叢書)

実体・体系・構造―機能主義の有論と近代科学の哲学的背景 (MINERVA哲学叢書)

存在論の根本問題―構造存在論 (現代哲学の根本問題 (1))

存在論の根本問題―構造存在論 (現代哲学の根本問題 (1))



※メモ:ディルタイルーマンについて論じた論文のリスト。(注の67から)

  • Alois Hahn, Die systemtheorie Wilhelm Diltheys. Fr Niklas Luhmann, in: Berliner Journal fur Soziologie 9, 1999.
  • Alois Hahn, Verstehen bei Dilthey und Luhmann, in: Annali di sociologia/Soziologisches Jahrbuch 8, 1992-I.
  • Cornelia Bohn, Verstehen, Kommunikation und das Problem der Schriftlichkeit: von Luhmann zu Dilthey, in: Annali di sociologia/Soziologisches Jahrbuch 8, 1992-I.
  • Hartmann Tyrell, Zur Diversitt der Differenzierungstheorie. Soziologiehistorische Anmerkungen, in: Soziale System 4, 1998.

ディルタイとゴフマン。(注の32)

  • Herbert Willems, Nach Dilthey: Die Verstehenskonzeption der Goffmanschen Rahmen-Analyse im Kontext soziologischer Theorieentwicklungen und allt醇Bglicher Verstehensprobleme, in: Annari di sociologia / Soziologisches Jahrbuch 8/1, 1992.