プログラム領域における共通性
「司法|立法|契約 という3つのプログラム領域が 一つの法システムに属する」とか「ニュース・ルポ|広告|娯楽 という3つのプログラム領域はが ひとつのマス・メディアシステムに属する」とかいう命題は簡単には納得しがたいよね。マス・メディアの場合、それはどういう意味でそう言えるのだろうか。
p.99
マスメディア・コミュニケーションの3つの[プログラム領域における]すべての[コミュニケーションの]形式が果たす意義とは[…]、
- 後続のコミュンケーションへとつなげていく諸前提を作ることにある。
- しかもその諸前提は ことさら同時にコミュニケーションしなくてよいものである。
[…] マスメディアは人が前提とすることができるような 背景のリアリティを創りだしてくれ、人はそれを下敷きにして出発し、自分の意見や将来の見通し、嗜好などの輪郭を描くことができるのである。
機能
p.100
したがって、マスメディアの社会的機能とは、
それぞれにアップ・トゥ・デートされた情報の総体にあるのではなく(つまり[〈情報/非情報〉という]コードの肯定値の側にあるのではなく)44) 経済の機能が富の生産にあるのではなく、政治の機能も権力の座についていることではないように。それによってつくりだされた記憶にある。社会システムにとって[社会的]記憶は、
- あらゆるコミュニケーションにおいて、その記憶が改めてそのコミュニケーションに導入されなくとも、そしてその理由付けをすることも必要とされずに、特定のリアリティの過程を既に知られているものとして前提にすることを可能にする
という役割がある。
[こうした社会的]記憶は 社会システムのすべての作動(つまりコミュニケーション)に働き、
- 既知の世界を参考にしながら その都度 意味が通っているかどうかをチェックして、あまりにも行き過ぎた情報は非蓋然的であるとして却下していく。
- それぞれに取り扱われている、リアリティーの断片(主題)は、二つめの、同意を義務としないリアリティに重ね合わされていく。
- だれもが観察する観察者として自分を他人にさらしながらも、しかしそこでは、互いが 異なり・比較できない別々の世界に住んでいるという感情はもたないのである。
それらプログラム領域は、背後にある日常文化を形成し、社会的なコミュニケーションの回帰性を常時再生産していくために、共同して作動する。それはあたかも、同じ土壌の菜園に水をやり、そこから必要に応じて収穫ができるようにしているようなものである。
「二つ目の」?
メディア
p.101
マスメディアとはつまり、情報を 知っている者から知らない者へと運搬するメディア という意味ではないのだ。それがメディアであるのは、
- それをもとに人びとがコミュニケーションにおいて前提にできるような背景知識を提供し、さらに
- それを更新して書き込んでいくという点においてである。
そこにある重要な区別は、知っている/知らない ではなく、媒質と形式である。
- 媒質は 巨大な、しかし同時に制限のある可能性の分野を提供し、
- そこからコミュニケーションは、一時的に ある特定の内容に固定するときに、形式を選択できる。
そしてまさにこうした点において、ニュース・ルポ|広告|娯楽が それぞれにたいへんに異なったやり方で関与するのである。
以下、──経済、芸術、政治、スポーツ、法との──構造的カップリングの話。