第3章 哲学者のための二種類の「新しい歴史主義」

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1988年報告、1990年出版。
タイトルにいう哲学における「二種類の」歴史の使い方のうちの一つはフーコーのもの、もう一つはローティのもの。

 哲学的分析は、ミシェル・フーコーの言う現在の歴史という活動と何か関連性を持ちうるだろうか? 持ちうる、と私はいう。しかしほとんどの人は、持ちえないという。というわけで、いろいろと説明しないといけないのは私のほうである。[123]

悲惨なほどに非歴史的な世界観をもっているように見える大学二年生に対して、デカルトはダイレクトに語りかける力を持っている。しかし、彼のテクストを知れば知るほど、気の遠くなるような解釈学の訓練を積んだ人でもなければ、そもそもそれを理解することすら難しいと実感するようになる。[133]
わろた。


155からが本論(社会種について)。153-154 くらいがその前置き(自然種について)。
それ以前の30頁くらいはずっーーーと前フリ。

導入に「ラベリング論」を使っているところに注目。
  • 「分析」っていうとやっぱりなにかをより細かい要素に分けることを期待する。

    @eguchi2012
    2012年07月10日(火) 22:04:16
  • 「概念分析」っていうと、概念がアプリオリ(?)に含んでいるものを明らかにしたり、命題がどういうときに真になるかの条件を出してくれたりすることを期待してしまう。

    @eguchi2012
    2012年07月10日(火) 22:04:54
  • これらはかなり伝統のある使い方なので、それ以外の意味で「概念分析」を使うのならば、よほど用心しないといろいろ誤解されたりするかもしれない。

    @eguchi2012
    2012年07月10日(火) 22:07:14


ハッキング先生が江口先生(twilog)に反論します。

哲学的分析と現在の歴史

 哲学的分析とは、概念の分析である。概念とは、しかるべき場所に位置づけられた語のことである。その場所というのには、発話されたり書き記されたりした文が含まれる。そして文はつねに、それを取り囲む より大きな場所の中におかれる。例えば制度であり、権威であり、言語である。哲学的分析というプロジェクトをまじめに受け止めるなら、概念とは何であるかを把握するために、そうした場所において言葉が経てきた歴史を知る必要が出てくるだろう。しかし「分析」とは解体することではないのか。より小さな部分へと分解し、それ以上分解できない原子へ至る作業ではないのか。いやそうとも限らない。例えば、数学における「分析〔解析〕」は、何よりもまず微積分学のことを意味するのである。確かに原子論は分析の一種であり、哲学においては、バートランド・ラッセルの確定記述の理論がその代表例である(その理論においてさえ、分析されるのは定冠詞「the」ではなく、その冠詞が現れる文なのである)。 J. L. オースティンは、「文の要素を明らかにする」という意味での分析はしなかったが、「分を使ってわれわれは何をやるのか、文の使い道とは何かにかんする分析を与える」という意味での分析を行っている。それと同じように、ある概念の歴史を引き合い出だすのは、その要素を明るみにだすためではない。その概念を有用なものにしたり、あるいはそれにまつわる問題を引き起こしたりしている原理を探求するためなのである。
 言葉の用法はある一定の条件のもとで出現して変化していくが、そもそもどのような使い方が可能なのかという可能性の範囲は、その条件によって決定づけられる。その決定の過程についてより具体的な推測をもち、それを確かめようとするなら、複雑な方法論をとる方向へ向かうことになる。[…] 方法論がどのようなものになるのであれ、一つのことは明らかである。このような研究方針は、実際に調べてみるということを求めてくる。[…] このようなわけで私は、偶然、決定論、情報や統制といった概念を取り上げ、それらについてのわれわれの現在の考え方の中に組み込まれている、何が起こりえて何が起こりえないかという可能性と制約のネットワークを明らかにするという試みを行ったのである(Hacking 1975a, 1990*)。
 しかし、いま提案しているような研究の方向性のもとで、倫理的な概念はどう扱われるだろうか? この種類の研究をしてきたのは ほぼ私一人だが、私が取り上げた例は児童虐待である(…)。児童虐待は、単なる反道徳的な行いではない。それは現在では、絶対的な不正である。[…] これまでに調べたところでは、われわれがいま行っている「児童虐待」というカテゴリーわけは1960年代に始まり、その後現在のような形に作り上げられてきたということは明らかになったと思う。そして、誰かが「非常に興味深いです。でも哲学とか、特に倫理学とかと何の関係があるんですか?」と聞いてきたら、こう答えるだろう。

  • ここにあるのは、「絶対的な価値」が、明白な絶対的不正が、われわれの目の前で構成される過程の生きた実例なのである。もしこれが、絶対的な価値としてわれわれが経験しているものの、まさにその本性なのだとしたらどうか。このような実質ある材料が注ぎ込まれることで、倫理的相対性についても血の通った議論ができるようになる。

これは、児童虐待をメタ倫理学のための例として使った答え方である。二つ目の答えはこうである。

  • ここにあるのは、分析と理論を必要としている厚い道徳的概念である。それが必要なのは、児童虐待の概念それ自体が重要だからであり、また、その概念構造がおそらくは、いままさに構成されつつある、他の多くの道徳的な概念と類似しているだろうからである(答え方は他にもたくさんある)。

 […] この方法の適用対象は、われわれが現在直面している問題である。だから、ここでいう歴史とは、現在の歴史である。われわれの現在の考え方はいかにして作られたのか、その概念を形成した条件は現在のわれわれのものの見方をどのように制約しているかについての歴史である。こうした営み全体によって、概念が分析される。私にとっては、これこそ哲学的分析というものである。
 私が知っているかぎり、哲学の中でこのような類の研究のモデルとするに足るのは、ミシェル・フーコーのいくつかの仕事だけである。 [155-158]