7.全体社会とコミュニケーション

  • 佐藤俊樹「社会システム」は何でありうるのか──N.ルーマンの相互作用システム論から──、『理論と方法』(2000, vol.15,No.1:37-48)

[7-1] [行為は、互いに他の行為に接続することで行為となりあう。(大意)]
[7-2] だがこれは経験的にはきわめて critical な定義である。ある『行為』が何であるか、いやそれがあるかどうかまでが後に接続する『行為』に依存し、その『行為』もそれがあるか・ない*かを後に接続する『行為』に依存し、その『行為』も……、となるからだ(構成要素を「コミュニケーション」といいかえても全く同じである)。
[7-3] むろん、だからといってルーマンの議論が全部あやまりなのではない。むしろ相互到達性の要件自体は『行為』の、すなわち従来「行為」や「コミュニケーション」とよばれてきたものの本質をついている。先にみたように相互作用でもそうであり、実は組織でもそうである(‥)。行為-コミュニケーションは事後的に他者によって成立する、したがって他者が言及し得ない状況で行為-コミュニケーションを考えることは無意味なのである──[‥]。全体社会システムの定義をあぶなくしているのは、「全ての……包括的な」という超越論的視点の方なのである。
[7-4] 行為-コミュニケーションの事後成立性=他者依存性を考慮すると、「システムである」というのがきわめてむずかしくなる。まず第一に、規則にせよ規則があるように思わせる何かにせよ、行為-コミュニケーションを可能にする因果的メカニズムが、一般的な形では想定できなくなる。いいかえれば、物理学的または心理学的な行為と社会的な行為-コミュニケーションは、全く別のものなのである。
[7-5] 第二に、これはルーマン的に翻案すれば、行為-コミュニケーション(の意味)が本源的に確定しえないkontingent ことを意味する。意外に思えるかもしれないが、そうだとすれば不確定性を処理するしくみ、たとえば「不確定性を吸収する」(Luhmann 1979)システムを想定する必要もなくなる。こういう形で「秩序」や「システム」を導入する議論は他にも時々みられるが、論理的に破綻している。なぜなら、少なくとも議論を立てた当人、当の社会学者だけは「本当は不確定だ」とわかっているはずだが、それでも日常的には支障無く行為できているからである。社会学者が内部観察者である以上、行為-コミュニケーションが本源的に不確定ならば、日常的にも不確定でかまわないと考えるほかない。この種のしくみを「一般理論」や「原理論」の形で立てるのはほぼ不可能である。
[7-6] 同じことが相互作用システムにもいえる。[以下略]

* 原文は「何か」になっているが、これは誤植と判断。