友愛の歴史社会学

やややややや。

 友愛は〈無気味なもの〉として姿を現す。例えば、「歓待性」と「敵対性」との同位対立や、「信頼」と「不信」との機能的等価性を想起すれば十分であろう。従って〈親密なもの〉としての友愛(=抑圧された友愛)は、「個人」や「社会」といった形象の無意識的な領域、否認され忘却された領域を形作るものとして、それ自体としてはむしろ、〈退屈なもの〉であり〈凡庸なもの〉であることを余儀なくされるのであり、またそれらの領域に対しては、専らある種の「余剰」や「残余」として振る舞うことを余儀なくされるのである。友愛がそもそも〈退屈なもの〉や〈凡庸なもの〉に思えるとすれば、そして「個人」や「社会」に対しては二次的で派生的なものに思えるとすれば、それはまさに、友愛が「個人化」や「社会化」の過程を、その〈閾〉や〈消失する媒介者〉としての資格において支えるものであるからだ。このことは、友愛と制度との錯綜した関係、友愛の〈制度〉性の間題を浮かび上がらせる。即ち、「友愛(関係)とは非制度的な関係である」というのは、いまや友愛(関係)を巡る(社会学的な)紋切型の一つである。ところが、この紋切型を擬装しながら「友愛(関係)とは非=制度的な関係である」と繰り返すとき、友愛が制度ならざる〈制度〉であることが、言い換えれば、制度に対する「外部」を保証してくれるような〈制度〉であることが明らかになるだろう。(p.16-17)

うぉーーーーっ。

 しかし、友愛とは、まさにこのような意味での〈無気味なもの〉であるが故に、「個人」や「社会」は、それらが「個人」や「社会」として存続するその限りで、それ自体の(不)可能性の条件、言い換えれば、表象化や言説化の困難さと密接に結び付いた、この〈親密なもの〉を否認し忘却することになるわけである。「個人」や「社会」を成立させる、この無意識的機制は、それらと引き換えに、友愛そのものに対して〈退屈さ〉や〈凡庸さ〉といった性格を与えることになるだろう。具体的たは、友愛はもはや情熱の展開する領域(例えば「政治」や「性愛」といった領域)からは遠く隔てられたものとして、もはやそこからは情熱を撤退させるよりほかない〈退屈さ〉に支配された領域として、場合に依っては、それに向けて情熱を備給することが、ますますそれ自体の〈凡庸さ〉を際立たせてしまうような領域として受け止められることになるだろう。友愛それ自体に対して、このような「消極的」性格を与えることによってのみ、「個人」や「社会」を確固不動のものとして、躊躇なきものとして、それらに向けて情熱が備給される中で、次第に自己を展開させるものとして了解することが出来るからである。友愛はもはや、それ自体としては、不定形なものであり、確定させることが困難なものであり、不安定なものであり、中途半端なものでしかないというわけだ。(p.17)

はははははは。なにいってっかぜんぜんわかんないや。わははははは。



....困っちゃったなー(´・ω・`).....