hidexさん曰く:
ちなみに一文目の「24段落目はカテゴリー化装置だ!」というのは、その段落が「カテゴリー化装置としての機能を果たしている」という意味ではないです(そんなことまで敷衍しなきゃならないのか。非常に疲弊させられる)。
そりゃそうだよ。だって他人だしw。
当然ながらその段落でしている議論はEMでいうところのMCDの議論に似ている、ということでもないです。たんに社会的に-言語的に-シンボリックにカテゴリー(みたいなもの)が発生する/可能になる条件を述べている段落だ、という意味です。
残念ながら、こっちは↑何いってんのかわかんなかった。です。
「メンバーシップ」がヒトのことを指すのだとしたら、ぜんぜん自明じゃないと思います。椅子や便器のほうがも社会的だと思う。
ぼくはおしっこするけれど、ヒトじゃなくてもおしっこするでしょ。しかしおしっこするという単位性は便器への行為傾向性との関連で定まりかけるようなものなので、行為の単位性と、皿やテーブルや便器は同時に射程に入れなければ、カテゴリーという社会的/実在的/超越的なものについてなにも語ったことにならないと思う。
なにがいいたいかというと便器もヒトも等価に社会的だということ。です。
「【ひと】──に適用されるカテゴリー──が社会的なのは自明じゃない」という主張を前提にすれば、
- 「カテゴリー一般」にではなく、まずは「メンバーシップ」に関わるカテゴリーに焦点を合わせるところから始めてみよう と考えるのは(=実情はともかく・仮にサックスがそう考えたのだとしても、それは)、社会学者の仕事の組み立て方としては、「ある意味自明」な行き方だろう
という主張は成り立たない。なるほどおっしゃるとおり(かもしれません)。
それはいいとして。
でも問題は、
【P1】椅子や便器
のほうがも社会的だ
とか
【P2】便器もヒトも等価に社会的だ
とかといった主張を、どうやって示すのか、なんですよ。その点は、話をどこに振っても変わらないと思うんだがどうか。
ていうか、椅子や便器について、その「社会性」がうまく示せれば、そりゃあ
になると思いますが?
他方、MCDで謂う「メンバー」は、〔略〕
それはわかる。わからないのはそいつでなにを議論しようとしているのかということ
「レリヴァンス」の問題*でしょう。
までも、多くのルーマニ屋のみなさんもほとんど気にされていないようですし、わからなくても「実害はない」のかもしれません。 ──とりあえず現時点では。
* と書く時に、私自身が念頭に置いていたのは、エマニュエル・シェグロフの次の論文:
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- エマニュエル・シェグロフ[1987→1998]、「ミクロとマクロの間:コンテクスト概念による接続策とその他の接続策」(石井幸夫訳) in 『ミクロ-マクロ・リンクの社会理論』、石井幸夫ほか訳、新泉社、ISBN:4787798200、1998/10、pp.139-178
さらにちなみに、社会学研究互助会でこの話題が(何度も)でた時(のうちの一つ)に参照されていたのはこれだけど:
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- 西阪仰、『相互行為分析という視点』、金子書房、ISBN:476089263X、1997/04
あそこではさらにもう1ステップ複雑な話──シェグロフ(1987, 1991)**の課すふたつの制約を、西阪論文[→改変のうえ(?)上記著作所収]がどうクリアしたか、という話──をしていたよ(皆さんが)。こっちの話題は、正直なところいまだにちゃんとフォローできた気がしてません(ので、まだたまに過去ログ読みかえしたりしてる私♪)。
** 確か、どっちかの論文を、会話分析読書会で読んだので、その話になったんだと思う。1987は「ミクロ-マクロ」だから、これ↓だな:
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- Schegloff, E.A. (1991) 'Reflections on talk and social structure' in: Boden, D., D.H. Zimmerman, eds. Talk and social structure: studies in ethnomethodology and conversation analysis., Cambridge: Polity Press: 44-71, ISBN:0520075064