『心脳問題』談義スレ:本日のその2

エントリを分けます。以下、

  • 【Q】「<政治的(〜倫理的)>という言葉をウルトラに使ってはいないだろうか」

という疑問について、また別の仕方で敷衍してみたいと思います。


 おそらくこの本の読者は、4章の記述に「共感」できる人(石田&大澤氏のように)と、できない人(山形氏や私のように)に大別されるでしょうが、【Q】は、このうちの後者が登場してしまう理由に関わっています。



〈1〉後者の人たちが「共感」できないのは、4章の基調主題に共感できないからでしょう。つまり:

  • 【S】世の中、「規律型社会」から「コントロール型社会」へ動いているよね

という「ストーリー」や、あるいはまた、こうした↓「まとめ」

いま私たちが目の前にしているのは、「コントロール型生政治」+「脳工学」+「脳中心主義」のトライアングルが私たちの生活を大きく規定しつつあるという状況なのです[p.269]

脳中心主義が現代社会の根本教理の一つになっていることと、その背景にはすぐれて現代的なコントロール型生政治の台頭があり、そこにおいて脳科学が重要な役割を果たしつつあること[p.270]

といった「言明」が、いったいどうやって示せ(ていることにな)るのかがわからない=これが「おはなし」以上のなんであるのかがわからない、ということでしょう。これがひとつ。
〈2〉そして──ある意味ではこれ↑と「同じこと」なのですが──もう一つ。次の主張を疑問に思うからでしょう:

心脳問題への横滑り──「ある種の知的な気分」の政治性[p.270〜]

  • 第二章において、心脳問題とは「『ある種の知的な気分』(心と脳の関係をめぐる堂々巡り)に浸ったとき、そしてその場合に限ってのみ生ずる難問だ」とのべました。/[略]
    脳科学が提供する技術やサーヴィスに、社会的文脈において触れること]から導かれる「ある種の知的な気分」は、もはや単なる「ある種の知的な気分」ではありません。
    「ある種の知的な気分」はいまや「ある種の政治的な気分」でもあるのです。[p.274-5]

つまり、この文↑は、こういう↓対応関係を主張しているのですが:

  • 【A】
    • A-1)心-脳 問題:「ある種の知的な気分」に浸ったとき生ずる
    • A-2)心-脳 を巡る「政治的」問題:心-脳を巡る「ある種の知的な気分」が「社会的文脈」へと横滑りして生ずる

けれども、この著作前半部で登場する「ライルの方針*」に、著作全体に対して首尾一貫して従うならば、こうした↑ことがいえるのか、というのが疑問です。
というのも、A-2)についてだって、もう一度「ライルの方針」に従って考えるなら、たとえば*1、次のようにも定式化できてしまうかもしれないからです:

  • 【B】
    • B-1)心-脳 問題:心-脳について、「ある種の知的な気分」に浸ったとき生ずる
    • B-2)心-脳-政治 問題:心-脳-政治について、「ある種の知的な気分」に浸ったとき生じる
      • 「政治」というカテゴリーのうちに、「心-脳」にまつわるあれこれをぶち込んだときに生じる

ここで「ライルの方針」と呼んでいるのは、八雲さんに次のようにまとめていただいたもののことです:
ところで「心(的)」という概念にどのような内容を与えるかということがひとによりバラバラなまま、しかしながら心と脳の関係という問題が立てられ、議論がたたかわされていることよなァ──という次第を示し、整理すること



そして、「4章の記述に「共感」できない人」(である私)には、次のような疑いが生じるのでした。つまり:

    • 【B】ではなく【A】を採用しているために、【S】を主張することが可能になっているのではないか?



【B】 【A】 は、二つの意味で、「超越的」です。

  • 「政治的なもの」についての(自らの)記述については、反省を行っていない、という意味で。
  • 「政治的なもの」ついて(だけ)は、「ライルの方針」は適用していない、という意味で。



二つをあわせて、【Q】という疑問が生じる、というわけなのでした。
──ということで、【Q】について、少しは敷衍できたかと思うのですが、やはり堂々巡りしているような気もするので、もうひとつ、山形さんの書評をだしにさせていただく形で、もう少し書いてみます


山形さんは、書評の中でこう書いています。

そして最終的には、脳科学を通じた管理社会批判。結局はこれまでのラッダイト科学批判とまったく同じ。気持ちのいいほうに、楽なほうに、と脳のめいじるままに動くと、生々しい生命とのふれあいを失うからみんなもんと苦労したり痛い思いをしよう、とかいうヨタ話。本当の苦労や痛い思いをしたことのない哲学者のアームチェア談義。脳科学、とかいう意匠をまとっているから目新しく思えるけれど、でもその意味で本書は、実は冒頭で批判されている、電車の中での化粧は脳のせいとかいう駄本の手口と寸分変わりない。

これ自体はかなり「決めつけオヤヂ」系の文章で、私としても、そのままでは「擁護」できませんが、しかしいくつか言葉を継ぎ足し・敷衍をしてよければ、その限りで(少なくとも私には)「充分に理解可能」なものにすることができます。
たとえばこのように:

  • 著者たちは、【S:世の中、「規律型社会」から「コントロール型社会」へ動いているよね】と謂うけれど、なんでそんなこといえるんだろう?
  • いろいろな題材が登場するけれど、それらは──【S】を証拠立てているというよりは──、【S】という「おはなし」の中に「ひとしなみ」に取り込まれて「煮しめ」られているようにみえるんだが。
    • ところで、こういう「大雑把な社会記述」にもとづいた「大ざっぱな社会運動」があったよね。ラッダイトとかがそうだけど。
  • 「政治的」なカテゴリーのなかにあれこれをぶち込んで「ひとつのおはなし」を語る、というのと、脳科学」的なカテゴリーにあれこれを関連づけて「ひとつのおはなし」を語る、というのとを比べたとき、「前者はよい」けど「後者はだめ」なんていえるだろうか?
    • いえないよね。

*1:あくまで「たとえば」ですけど。ここの箇所はもっとあれこれ考えてないといけません──と書きあぐねたら今日になっちゃったわけですが。