『心脳問題』談義スレ:本日のその3(付録)

本日のエントリの最後に。付録。
八雲さん自問して:

*1:ひょっとしたらそれは、小生が社会システム論的な思考のスタイルに疎いこととなにか関係があるのではないか、という気もしてきました。あくまで気がしているだけですけれど。

そうではなく、それはたぶん単に、私の文章が下手なせいです。
私が一番気にしているのは、ともかくも、「ライルの方針」に首尾一貫して従った場合、この本(が扱っている主題)は、どのように変わる(/変わらない)だろうか、ということでした。

そして、私の知る限りでは、社会学のなかで、「ライルの方針」(に相当するもの)についてキチンと考えて来たのは──システム論者ではなく──エスノメソドロジストかと思います。(というか、そういう「予想」が強く成り立つので、いま勉強をしています、というくらいの話なのですが。ただし私の社会学に関する知識は非常に限られたものでしかなく、エスノの他にも「ライルの方針」について、ちゃんと考えている流派はあるのに私が知らないだけ、という可能性もおおいにあります。 いずれにせよとりあえず、) その点について言えば、これは「システム論」にインスパイアされた話ではなかった、ということだったのでした。
【追記】20040713 00:03
他方、「概念の超越的使用」云々のほうは確かに、(ルーマンの)システム論的な議論の、少なくとも間接的な影響下で述べられていることである、とはいえるでしょう。
ただし、私としては、両者は「同じこと」だと考えているのです。つまり、著作の中で「概念の超越的使用」がみられる場所は、「ライルの方針」に従って いない 箇所だという風に。です。
最初のエントリで、「<パーソンズ>&<フーコー(→ドゥルーズ)>」という話をしたのは、学史に頼れば(=パーソンズフーコーを比較すれば)、第4章で生じている「概念的な捻れ」を、ある程度簡単に描写できるだろうと思ったからでした。
簡単に書いておけば次のとおり:

  • 社会を、「(第4章でいう)規律型」[=内面管理型]をベースに記述する、という意味で、パーソンズフーコーは酷似していると思います。つまり、「規範・ノルム」を中心に据えて、それが「拘束」したり「共有」されたり「ポジティヴに」働いたり(以下略)する姿を描く、という点で。
    • ここで、フーコーのほうは、上記の事態について、非常に大ざっぱな仕方で「権力」という言葉を用いて語り、また同様に「政治」という言葉も用いたようですが、パーソンズはといえば、これを主要には「社会化」とか「内面化」とか「共有」とか(以下略)といった言葉を用いて語り、上記の事態 すべて に対して「政治」とか「権力」とかいう言葉を用いはしなかったようです。(これは、これだけとっていえば「言葉の使い方の違い」です。)
  • ところで、4章で引かれている「政治」の「定義」は、パーソンズ由来のものと考えてよいでしょう。
  • 他方、主要な記述は、「フーコー風」の「言葉の使い方」で進められているようにみえます。

そこで、「言葉の使い方」に「捻れ」が生じるだろう、というわけです。

そしてこれが、「政治的」という言葉の超越的な使用を支えている理由の一つのように思われるのでした。またおそらく、これを許容させているのは、「集合的」「決定」「拘束(的)」「コントロール」等々といった概念の、ゆるい使用なのではないか、とも。*1
しかし、

  1. これはこれでめんどくさいw。
  2. 著者お二人にとっては、──おそらく──ほとんど「ショートカット」にならない。
  3. パーソンズフーコー」だと捻れが生じるのか。だったら、「フーコーだけ」でいけばよかったねぇ というみもふたもない話になりかねないw。

とかとかということが考えられるので、放置の方向で。

ちゃんとやれば「卒論」くらいのネタにはなると思うので、ネタに困っている方、どうぞ持って行ってください。


ちなみに、次の点では「システム論」の名を出してよいかも知れません。
つまり、「我々が、【政治的なるもの】(の領域)に、ついつい過剰な期待をしてしまいがちであること」についての記述*をすることで「政治的なもの」の記述をするルーマンの議論に、私自身が陰に陽に「影響」を受けているだろう、という点では。

* もちろん「こんなこと」ばかりやっているわけではないですがw。

*1:「じゃぁどうすればよいのだ!?」という疑問についてもちょっと考えてはみたのですが、むつかしくて、特になにも書くことを思いつきませんでしたw。