『心脳問題』発刊イベント@四谷#に行ってきた【番外編】(その2)

しょこらしょさんにお返事をいただきました。どうもありがとうございます。



しょこらしょさん曰く:

さて、「話をすすめる前提として、質問を2つさせてください」との事なのですけれど、会場で質問させていただいたわたしくしの意図を、お聞きいただけますでしょうか。

なるほど。では そちらを先にいたしましょう。

まず、私は特に議論に参加させていただこうというつもりはなく、『何が聞きたくてあるいは「何が気に食わ」なくてw(?)』(酒井さんに質問させていただいたのか)という事につきましては、このようにお答えしたいと思います。会場の皆様の中には、はてなダイアリーでの山本氏、酒井氏のやりとりをご存知でない方もいらっしゃると思われ、また、わたくしも酒井さんがどのようなモティーフでご質問(ご批判)なさっているのかを、改めて確認させていただきたいと思ったのです。会場では、あまり上手く表現できなくて申し訳なかったのですけれど(^^;)

そうはいっても/こう述べているときには既に、「参 加 し_て_し_ま_っ_て_い_る」罠、ですが。──それはさておきまして。


私自身の「つもり」としては、会場では──なにしろそこは「はてなではないのですからw──「はてな」における(主に id:yakumoizuruさんとの)やりとり-とは独立に/それを参照しなくても理解可能であるように-、「質問」を定式化して述べたつもりだったのですが。簡単な話、おそらくその質問自体が、十分に分かりやすいものではなかった、ということなのだと思います。

それで、「やりとり@はてな」を知らないと理解できない話であるかのように考えたかたがいらっしゃった、と(そういえば絓さんも、そのように「勘違い」されていましたが)。


酒井の問いの「主導動機」を、「やりとり@はてな」からあらためて取り出しておけば、この↓箇所になるかと思います:

私が一番気にしているのは、ともかくも、「ライルの方針」に首尾一貫して従った場合、この本(が扱っている主題)は、どのように変わる(/変わらない)だろうか、ということでした。

そして、私の知る限りでは、社会学のなかで、「ライルの方針」(に相当するもの)についてキチンと考えて来たのは──システム論者ではなく──エスノメソドロジストかと思います。(略)
【追記】20040713 00:03
他方、「概念の超越的使用」云々のほうは確かに、(ルーマンの)システム論的な議論の、少なくとも間接的な影響下で述べられていることである、とはいえるでしょう。
ただし、私としては、両者は「同じこと」だと考えているのです。つまり、著作の中で「概念の超越的使用」がみられる場所は、「ライルの方針」に従って いない 箇所だという風に。です。


なんだかお答えになっているようななっていないような、でございますけれど。

いえいえ。
もしも上記の私の「応え」が、これで「答え」になっていれば、こちらのほうに対して改めてコメントいただくのがよろしいかもしれません。(もちろん「保守」論議を続けていただいても構わないのですが。)

そういえば、エスノメソドロジストもしばしば「お前らは保守的だ」とホーボーから「非難」されているようですし、ルーマンエスノ双方に依拠しようとする私が「保守的だ」という評価をいただくのは、(二重の意味で(?))何ら不思議ではない。のかもしれません。ふふ。