『ルーマン・シンポジウム』

社会システム論と法の歴史と現在―ルーマン・シンポジウム

社会システム論と法の歴史と現在―ルーマン・シンポジウム

先生曰く[p.295-7]:

ルーマン 法史ないし概念史・理念史は、法Rechtと制定法Gesetzなど二つの源泉から湧きだして来ると思います。

このうち、前者は──それはこれまでも常に格段の注目を集めて来たのですが──法思想の一般化に他なりません。首尾一貫して、正当的かつ公平に判断しようとする場合には、ある事案に対する判決が他の事案をも拘束するのかどうかを確定するために、そうした概念が必要となって来るのです。
即ち、

  1. 一方に、契約・所有等々といった観念を生みだす 一般化が存在しており、
  2. 他方には、「不法」「合法」という二分コードの故に、パラドックスが存在している

のです。これが法律的意味論、法律的概念世界の定義とその変更の二つの──一つに纏めることはできません*──源泉だと私は考えております。

* この認識が『社会の法』の章立てを規定していると思われる。

河上 [‥] 今、お話の中にエールリッヒの名がでてまいりましたが、彼は法を「人間の行為の規範」であり、「社会組織(soziale Verbände)」の平和的な内部秩序」だと考えたうえで、法を「国家法(Staatsrecht, Staatliches Recht)」と「法曹法」と「生ける法」とに区別しております。パラドックスの回避という場合、主としてどのレベルで進行すると思われますか。


ルーマン オイゲン・エールリッヒに関しては、その一部についてまずお話したいと思います。
 オイゲン・エールリッヒを私は歴史的テクストとして読みます。当時──つまり十九世紀末の段階で──法がほとんどもっぱら国家によって制定された法として定義されていたということをはっきりと理解しておかないとエールリッヒのテクストも正確には理解できないと思うのです。彼はまずブコビナに生活しているオーストリアの法律家として、住民の本当の法意識が国家法とは一致していないということ、即ち国家法が法そのものであるという主張の不当性を看取していたのです。そして、歴史的研究の中で、つまり『法律的論理』の中で、エールリッヒは Systematik、即ち近代ローマ法の概念体系は古代のローマ法とは全く一致していないというテーゼをたてたのです。何故なら、古代ローマでは訴権理論actio的な考え方、つまり actio は訴権である という考え方 が支配的だったからです。ローマ人からすれば、請求のための訴権を有しているかどうかが重要だったのです。彼らにとっては、訴権体系──例えば サヴィニーにおける 財産権の体系といったものが存在しているかどうかなどではなく、法廷で成功し得るかどうかということの方が重要だったのです。それ故、エールリッヒの研究は、近代の法発展の批判なのです。

ちなみに少なくとも社会学者にとってはこうなってしまった↓らしい。(やばい)。

しかしエールリッヒの述べたことは我々の共有する知識となってしまっております。我々は、もはや、法実証主義的な立場を取ってはおりません。社会学者としては全く当然のことなのですが……。エールリッヒの発見は大変興味深いものだったのですが、しかしそうした知識はその後にごく一般的なものになった、少なくとも社会学者にとってはそうなったのです。以上が第一の点です。


河上 「エールリッヒを歴史的テクストとして読む」と明言し得る現代の社会学者を羨しく思います。かつて、アントン・メンガー法律学を「科学の田舎町」と呼んで慨嘆したことがありましたが、エールリッヒの認識が一刻も早く法学者の共有の財産となることを願ってやみません。


ルーマン 法史学者は勿論ですが、法社会学者も、エールリッヒの知識を前提とせざるを得ないと思います。

エールリッヒ読まざるもの社会学者にあらず。

ところでこのはなし↑に続くのが、ここ[→]に挙げた件の「自己批判」。
趣旨は、ルーマン自身、上に挙げた「二つの源泉」のうちの前者しか扱ってこなかった(のはまずかった)、ということ。(『法社会学』と『社会の法』のもっとも顕著かつ重要な違いも──したがって──そこにある。)
ところで、その箇所で河上さんの質問にちゃんと答えた事になっているかどうかは疑問w。(ただし、「エールリッヒの分類に依拠しては答えられない」が答えだ、と考える事はできる。)