夕食。再び1章&2章。
2章「心なき人間」見出し:
第1節の、ありもしない──エセSF的な──物語をダシに話を進める ふるい分析哲学流のやりくちが すこぶる気に食わん。
こういうのにつきあうのは しんどい(=読む気がおきない&つきあってらんない)。
2節以降が、クリプキ風本質主義者(二元論者)[2&3節]、ライル風および(一部の)ウィトゲンシュタイン主義者風行動主義[4節]、そして唯物論[6節]などの批判的検討に、それぞれあてられている。そして、4節を中心に、ウィトゲンシュタインに対する微妙な(そしてまた、一部ウィトゲンシュタイン主義者に対するはっきりとした)批判があり、私がフォローしたいのはそこなのだが、議論が微妙でうまく乗り切れない(^_^;)。も一度読むか。
論法としては、
懐疑論者に対してベタに答えてはいけない。反論するときは適切な寸止めで*。反撃するときはあくまで足払い(or 門前払い)攻撃で**。(大意)
というもの。(まったく仰る通り。)
が、この章には、少なくとも3種類以上の懐疑論者が登場しており、まずはそれらがどう違うのかを理解しなくてはいけないのだったw。なかなかにしんどい。
* そのココロは。懐疑論者を相手に、寸止めにとどめず・拳を振り抜いてしまうと、言い過ぎ・やりすぎによって誤謬の領域におちるぞ、ということかと思われる。
ウィトゲンシュタインおよび一部ウィトゲンシュタイン主義者***に対するコメントも、「寸止めせずに 振り抜いちゃってる(がゆえに間違ったことを言わざるを得ないところに墜ちてしまっている)」というタグいのもの。(これもなるほど──この指摘が適切なものなのかどうかを私は考えてみたいわけなのだが、とりあえず──、ありそうなことではある。)
なお、この作法については(本書全体を通じて、要所要所で繰り出される基本的な攻撃作法ではあるが、特に) 6章の終わりあたり──デイヴィッドソンの議論を敷衍しているところ [p.353-357]──で、ローティ自身による見事なお手本を見ることができる。** 直接反撃するのではなく、「懐疑論的直感が もっともなものにみえるような言語ゲームとは、どんなものなのか」を特定=限定してやること(によって、間接的に答えること)。
そして、「再記述」という戦略は、まさにこの文脈で登場するものなのだった。
逆に、全面的に・ちゃんと・首尾一貫した答えを与えようとしてしまうと、→認識論の語彙と問題設定に依拠するよう追い込まれる→相手と同じ土俵に乗っちゃうことになる→結果的に懐疑論の延命=再生産に寄与してしまうことになる、と。
したがって/(やはり)逆にいうと、「再記述」という戦略は、そういうことに加担しない為の方策でもある、ということになる。
*** たいへん残念なことに、この「一部ウィトゲンシュタイン主義者」という言葉で 誰が指示されているのか、参照文献からでは(私には)わからないのだった。識者のご教示を乞う。