昼食。再び1章&2章。
他人の心についての懐疑論への行動主義的な対処には、──ローティによれば──論理実証主義をバックグラウンドに持ち・意味の分析を行うものと認識論的な行動主義の二つのヴァリエーションがある。
後者はデューイおよびウィトゲンシュタインの名と結びついて第4章で採り上げられる。
前者は、ライルおよび一部のウィトゲンシュタイン主義者によるスタイルであり、──再びローティによれば──、「他人の心についての懐疑論」と同位対立してしまっている(のでダメだ)ということが本章2〜5節までを使って論じられる。
下記引用のあたりが、このライル風行動主義の隘路について、ローティが当座の結論として置いているもののよう。若干の修飾を加えつつ引用すると:
- 「直接的知識」とは、その所有者が意識的推論を経ることなくもつ知識のことにすぎない。[そして、ローティに言わせれば、この点にはなんら謎はない。謎が生じるのは次のステップ、すなわち]
- しかし、このやり方で知られることに、[たとえば非物理的〜心的存在者のような]ある種の存在者がことさら適していると考えるいわれはない[のに、「心的存在者こそが 直接的に知られるものである」と考えてしまうときにこそ、な]のである。
- [そうではなく、]何が推論なしに知られるかは、たまたま熟知し慣れ親しんでいるものは何か という問題である。
[p.111-112]
事情はこのようであるのに、ライルは、
- デカルト主義(的-本質論的-二元論)を反駁するには、 「生まの感覚」・「直接的知識」など存在しない という主張を掲げる必要がある
と(誤って)考えてしまった。それにより彼はさまざまな困難を抱え込むことになり、また批判者の攻撃も まさにこの点に集中してしまったが、──ローティに言わせると──こうした事情こそが「心の哲学」を誕生させたのだ、ということなのだった。ほんとかよ。