門脇「現象学における〈動機付け〉の概念」

昼食。

よい論文をご教示いただいた。感謝感謝>faaさん


まず

それぞれ確認したあと、そこから振り返って改めて

探っていこうとするもの。この議論は後に、この本↓でさらに展開されているが、

そちらのほうは、アンスコム v.s デイヴィッドソン(〜動機 v.s 因果)の検討を介して さらに遠くにいこうとしているものなので、ハナシはそれなりに込み入っていて

その方面の議論にあまり馴染みのない私には

けっこうむつかしかった、という記憶がある。が、上記論考を読むと、『理由の空間の現象学』という著作が「動機付け」論考からの首尾一貫した展開であることが確認でき、全体としての話の見通しはよくなった 気_が_す_る。 ──てとこで、『理由の空間』のほうも再読しておこうかな。


 この論考では、アンスコムフッサールのパラレリスムの確認のあとで、さらにそれをウィトゲンシュタインのほうへと延長する(というか差し戻す)方向が示唆されているが、この議論はルーマニ屋にとっても利得がある。
 フッサールの「孤独な心的生活」についての議論は──デリダの かの有名な批判以降特に──非常に評判が悪いものだが、(その筋の方々はみなご存知のように)『社会的システムたち』(のコミュニケーションの章)のなかでルーマンは、フッサールのその議論をデリダに抗して擁護する*1趣旨の発言をしている。 ‥‥例によって悪筆ルーマンは その箇所でほとんどまともな敷衍をしておらず、正味のところいったいなにをどこまで考えての発言なのか 自信をもって解釈を展開するのは難しいのだが、

そこで例によって読者としては腹立たしい思いをさせられることになるのだが

門脇さんがここで行っている、

  • 言語ゲームの側から「孤独な心的生活」を捉えることは フッサールの主張に反するわけではない〉(大意)

という主張がデフェンスされうるものであるのなら

おそらくこの主張は「教科書の現象学」(的通念)には
もちろん、「超越論的主観性」のような観念にベタに訴えるとかいうことなら話は別だが
反するだろうし、残念ながら私には、その主張の当否について判断する力はないが、

ルーマンの議論も「ついでにいっしょに」デフェンスされてしまうことになる。めでたい。


 ちなみに、こちら↓の本では、同趣旨だが、それがひっくり返ったさらに強い主張*がなされており、ルーマンの議論との重なりは、こちらのほうがもっと見えやすい:

フッサール ~心は世界にどうつながっているのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

フッサール ~心は世界にどうつながっているのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

* 〈「孤独な心的生活」についても言語ゲームのほうから捉えるのが筋というものだ、と考えてこそフッサールの主張に適う〉(大意)



追記
■ダメットの見解と対照のこと:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20070408

*1:or 少なくともニュートラルなものには読めない