「〈あたりまえ〉から学ぶ社会学」を巡る、書きかけのメールのためのメモ。[→承前]
これら↓が「現象学の」特徴付けには ならない ことに注意しよう:
A
- [A1] 事象そのものへ
- [A11] 経験-への帰還/からの出発
- [A2] 理性の自己吟味(=理性批判)
それは新カント派だって論理実証主義(論理経験主義)だって──批判的合理主義だって(以下略)だって──、それぞれに追求していた課題──いわば「時代のスローガン」──だっただろう*。
そうではなく、この課題に 次の方針で臨んだときに、「現象-学」──自らを示すもの-についての-学──は成立したのだった。フッサール――よりもプレゼンが巧みだったハイデガーが、フッ君の言葉をパラフレーズしてまとめた**ところ――に従えば:
B
- [B1] 自らを示す当のものを、[→現象]
- [B2] それが自らを示すとおりに、それ自身のほうから 見えるようにさせること [→学***]
* 激しく うろおぼえだが、たとえば新田御大が、『フッサールを学ぶ人のために』所収の(ユルい)論考でそのように主張していたようにおもう。が、記憶はあくまで朧である。
** 『存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)』2-7-C
*** 或るものを「見えるようにさせるphainestai」のが「ロゴス」。
** 『存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)』2-7-C
*** 或るものを「見えるようにさせるphainestai」のが「ロゴス」。
ところで他方、「経験的な学」のほうの課題は次のようである:
C
- [C1] 対象についての知見を、
- [C2] 同僚たちに対して──その主張について「真偽の決着がつくはず」という抗事実的規範のもとで──証示すること
だから。
もしもこの世に「現象学的な-社会学」なるものが存在しうるのだとすれば、それは、
- 「経験的な学としての社会学」の課題 [C]を、
- 方針 [B] のもとで、
- 課題 [A] に応えるように、
遂行する
というものであるに違いない。
それができればフッ君は「ほんとうの実証主義」だと呼んでくれるかもしれないね。べつに嬉しくないけど。
これまで「現象学的社会学」と呼ばれてきたものが、そのような↑ものであったかどうか*、などということは私の知ったことではないけれど、それはさておき『ワードマップ エスノメソドロジー』のほうは どうぞよろしく。
- 作者: 前田泰樹,水川喜文,岡田光弘
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* 私には「ちっとも似ていない」ように思われるけど。──まぁ「人生いろいろ」ということでひとつ