本日の大先生、そして/あるいは 涜書『ユリイカ』(特集ブログ作法)

ユリイカ2005年4月号 特集=ブログ作法 あるいはweblog戦記

ユリイカ2005年4月号 特集=ブログ作法 あるいはweblog戦記

 人が「書き続けて」しまう生き物であるのなら、それは同時に「読み続けて」しまう存在でもあることを意味する。そのような中断性のない媒体は、人に中毒性と、「中味」にあたらずに「評価」や「情報」や「位置」ばかりを気にする様式を誕生させてしまう。この点において、理論や政治における「ポジショナリティ」は、業界的、世間的、「わたし垂れ流し」系の「立ち位置」に自動的に翻訳されてしまっている。そうなると、ある種のもの書きは、つねにネットやブログのなかで語られている自分の位置が気になって仕方がなくなる。というより、自分がネットやブログの他者評価を始終気にしているということを誰もが知っていて(taken for granted/通用的真理)、その事態そのものを再度循環的に自分が配慮しながら、書く/発話することになる。自分がネット内/外の世間から常時チェック(評定)されていることを気にしていることをネット/ブログを通して(再)確認することで「自己への配慮」としての「気にしすぎの主体」が立ち上がる(「もっと、ぽくの方を見てよ!」「わたしをオカズにしてるんでしょう?」)。
 昔から、ある種の症例においては、なぜかラジオやテレビで悪口が言われているという妄想が語られる。今日では 2ch や ブログがそのような媒体となりはじめている。しばしば、もの書きやアーティストは自意識過剰なので、もの書きやその予備軍が双方向的な妄想産出メディアとしてブログに飛びつくのは不思議ではない。しかしブログをプロのもの書きへのステッピングボードと考えている向きはおそらく圧倒的に少ないだろう。それはフィルタリングや推敲のレヴェルからうかがい知れる。かつて「無意識過剰」(浅田彰)と評された「団塊ジュニア」の「ポスト新人類」がブログに多大に依存しているのは面白い。安全で合法的な快楽中毒者(ジャンキー)たちの仮想生活世界。
 この手の「気にしやさん」のもの書きは、ネット/ブログによって主体化する「表出/垂れ流し」系の読者にとっては感情移入しやすく、人気もとりやすいだろうが、およそ古典的な「編集」や「読解(理解)」の視点からすると、いつまでたっても「最終的な本音のわかりにくい」書き手に見えてくるかもしれない。ポジションを気遣う者が、最もポジションを不明瞭にしつづけるという逆説がここにはある。PC的ポジショナリティが先進国知識人の「疾しい良心」の拠り所であったなら、ブログ的「立ち位置」は仮想の「良心/共同の意識=知識」con-science から自らを統治する。書き込みで本名を名乗っても、なかなか信用されたいようなことがネットやブログで起こりうるのは、こうした文脈からすると、全く理解できることである。[p.148-149]



917 :名無しさん@社会人:05/03/16 22:05:43
泰斗はブロクに自分の読書履歴を書いているが、これもある種の自己観察システム。
しかし、自己観察行為の対象からは、つねに自己観察そのものが排除される。


たとえば土方訳をけなしておいて、その復刊を願うというパラドックスは、
外部観察システムによって初めて記録されうる。その意味で、このスレは、
泰斗のブロクの外部観察システムであり、このシステムにとって泰斗の
ブロクは観察対象としての環境であると言える。


しかしながら、泰斗自身が、この外部観察スレに書き込みを行うことで、
システム/環境、の差異が、観察システムとしてのこのスレッド内部で再生産される。
つまり、泰斗の書き込み/その他の書き込み、という形で、スレッド内部に
システム/環境ー差異が再生産される。これが、スペンサー・ブラウンのいう
再参入(再導入)である。
こうした、スレ内部に再生産されたシステム/環境ー差異を適格に表現したものこそ
【泰斗と愉快な仲間たち】なるフレーズに他ならない。


こどもが 覚えたての言葉を嬉しくて並べてみました 的な、すずやかに風情のある文章ですね。

(ですよね。)