ヒューズ&シャロック『社会研究の哲学』

読書会@東洋大。なかなかにすごいメンツ。

年齢層が高い、といういい方もあるが。

このメンバーで一つの本をダシにディスカッションできるというのは、私にとっては大変有り難い機会である。

The Philosophy of Social Research (Longman Social Research Series)

The Philosophy of Social Research (Longman Social Research Series)

第一章終了。


タイトルについて。


メモその1:
タイトルは、──『社会調査の哲学』ではなく──、『社会研究の哲学』とでも訳されるべきものであった。

著者のいう「social research」は、「survey」と同義ではなく、それを包摂する上位概念(「social study」に近い?)のようなのであった。ただし、イングランドで一般的にこういう使い方をするのかどうかはわからず。


メモその2:
『社会研究の哲学』にいう「哲学」という語への著者たちのスタンスは、アンビヴァレントであるよう。
タイトルをみて 読者がまず予想するのは、

【a】社会研究というものについての反省的な吟味

というほどの内容だろうが──そして実際、そんなふうに読めないこともない文章も見受けられるのだが──、たとえば次のような記述をみると、どうやら事情はそれほど単純ではない。

【b】How do we judge between different systems of knowledge? Are there clear and unambiguous criteria, as Plato and Descartes felt geometry represented, by which we can determine whether or not what we know is true? Is there, in short, any universal source of intellectual authority, or is all knowledge simply relative to the society and the period in which one happens to live? Questions such as these, abstract though they may seem, are important in helping us to understand what we are doing when, among other things, we engage in social research to produce knowledge.[p.10]

著者達はここで、「universal source of intellectual authority はあるのだろうか?」などなどの問いを、著者達自身が取り組むべき問いとして提出しているのだろうか。‥‥といえば、それは明らかにそうではない。 そうではなくて、そうした──かつて旧いヨーロッパの思惟が取り組んで来た──古典的な問いは、「社会研究に取り組んでいるとき、研究者はなにをしているのか」を理解するのに役立つ、と言っているわけである。 この、理解に指向した試み(b)は、内容としてaを含みうる。 しかし、aとbが 同じものだとはいえない。
したがって「社会研究の哲学」というタイトルの 言わんと-すること は、「かつて哲学という名で呼ばれた-旧いヨーロッパのトピカ-を、社会研究という営為の理解に役立てること」をも含めて、著者達は「哲学」と呼んでいるのか否か がわかれば決まる。

私自身は呼ばなくてよいと思うし、呼んで欲しくないし、呼ぶべきではないと考えるが、

‥‥ともかくも、それは1章を読んだだけでは(私には)わからなかった。



こうした点で、この著者達はすこし不親切だとおもう。訳を出す時には解説が必要。