二次の観察について:その1

mixiルーマニ屋>「デリダとルーマン」スレのために。 ルーマン『社会の芸術』第二章「一次の観察と二次の観察」(XII 観察と脱構築) を巡って。


まずは前提的かつ素朴な質問を三つ。

[Q1]この箇所でMさんは、次のような腑分けをおこなっているように見えるのですが:
【定式1-1】

  • a-1:脱構築は、一次の観察に内在的である。
    • a-2:[二次の観察は、一次の観察に外在的である。]
  • b-1:脱構築においては、自身が用いている区別の同一性というものが 書き換えられていく。
    • b-2:二次の観察は、[他者の(?) 用いている 区別pとは]別の 区別q用いる



この腑分けは、こう理解してよいのでしょうか: ここでは──以下、脱構築を[D]、二次の観察を[sO] と略記します──:
【定式1-2】

    • 【b】「同一性の書き換え」[D] -と-「区別の使用」[sO]
    • 【a】「自身の用いる区別」[D] -と-「他者の使用する区別」[sO]

という二つの対比が、1セットとしておこなわれている、と。


この理解でよいとしたら。
以下、それを前提とした質問です。


[Q2] ここでMさんのいう「自身」とは誰の(/何の)ことでしょうか。
たとえば。『グラマトロジー』においてデリダは、ヘーゲルを読み、ライプニッツを読み、ルソーを読み(以下略)、そして文章を(テクストを)書いて出版したわけですが、これらのうちの誰が

という尋ね方がもしも的を外しているならば 言い換えますが、
あるいは、(この人たち以外の)何が・どれが、

そこでいう 自身 なのでしょうか。


同じことを言いかえると。
ファーストオーダーの観察に内在的に同一性の可変性というものを作り出していく のは、一次の観察なのでしょうか。それとも二次の観察なのでしょうか。

それとも、「どちらでもない=別のなにか」なのでしょうか。 ──その場合は。脱構築二次の観察の特殊なありかた として扱おうとしているルーマンの議論は、そもそも出発点からしてまったく見当違いだ、ということになるでしょう。
したがって、「デリダルーマンは、そもそも出発点を 共有していない」ということにもなるはずですが。‥‥いかがでしょうか。


[Q3]【b】 の対比は、前の部分で述べられている【引用2】と、どのように整合するのでしょうか。
一つのあり得る解釈として、二次の観察においては、一次の観察の用いる区別は流動化されるが、二次の観察の用いる区別は流動化されない というものが考えられますが、そう理解してよいでしょうか?


質問は以上です。



【追記】20050602 18:06


グラマトロジーについて 上

グラマトロジーについて 上

グラマトロジーについて 下

グラマトロジーについて 下

ついでに。英語版訳者序文。
デリダ論 (平凡社ライブラリー)

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