まずは前提的かつ素朴な質問を三つ。
[Q1]この箇所でMさんは、次のような腑分けをおこなっているように見えるのですが:
【定式1-1】
- a-1:脱構築は、一次の観察に内在的である。
- a-2:[二次の観察は、一次の観察に外在的である。]
- b-1:脱構築においては、自身が用いている区別の同一性というものが 書き換えられていく。
- b-2:二次の観察は、[他者の(?) 用いている 区別pとは]別の 区別q を 用いる。
この腑分けは、こう理解してよいのでしょうか: ここでは──以下、脱構築を[D]、二次の観察を[sO] と略記します──:
【定式1-2】
-
- 【b】「同一性の書き換え」[D] -と-「区別の使用」[sO]
- 【a】「自身の用いる区別」[D] -と-「他者の使用する区別」[sO]
という二つの対比が、1セットとしておこなわれている、と。
この理解でよいとしたら。
以下、それを前提とした質問です。
[Q2] ここでMさんのいう「自身」とは誰の(/何の)ことでしょうか。
たとえば。『グラマトロジー』においてデリダは、ヘーゲルを読み、ライプニッツを読み、ルソーを読み(以下略)、そして文章を(テクストを)書いて出版したわけですが、これらのうちの誰が
という尋ね方がもしも的を外しているならば 言い換えますが、
あるいは、(この人たち以外の)何が・どれが、そこでいう 自身
なのでしょうか。
同じことを言いかえると。
ファーストオーダーの観察に内在的に同一性の可変性というものを作り出していく
のは、一次の観察なのでしょうか。それとも二次の観察なのでしょうか。
それとも、「どちらでもない=別のなにか」なのでしょうか。 ──その場合は。脱構築を 二次の観察の特殊なありかた として扱おうとしているルーマンの議論は、そもそも出発点からしてまったく見当違いだ、ということになるでしょう。
[Q3]【b】 の対比は、前の部分で述べられている【引用2】と、どのように整合するのでしょうか。
一つのあり得る解釈として、二次の観察においては、一次の観察の用いる区別は流動化されるが、二次の観察の用いる区別は流動化されない
というものが考えられますが、そう理解してよいでしょうか?
質問は以上です。
【追記】20050602 18:06

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